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全関西大会で三位に入賞したということで、トロフィーと賞状をいただきました。







といっても、負けたのですが。





「え~、なんだよ~(笑)」

と思った諸君は、おそらく「普通の人」で、「普通のツキ」の人です。





堂々と声を大にして言います。



人生で大切なのは、実力よりも、ツキである!

と。





試合前から、「入賞しましたありがとうございます」と何回も自分に言い聞かせていました。



自分の夢がすでに叶ったイメージを持つことで、その確率は格段に増えます。







むろん、勝っていても、入賞だったのですが、

負けて入賞したことにこそ、私は誇りを持ちたい。







相手はものすごく強い方で、「あそこでああしていたらよかったな」とか、そういうことも一瞬考えましたが、

やっぱり、完膚無きまでに叩きのめされましたし、

そのまま、圧倒的な強さで優勝まで上り詰めていきました。



パワーに技に、心からほれぼれするような素晴らしい選手でした。

戦えて本当に感謝しています



自分としても、ベストの動きで挑めたし、本当に戦いながら楽しめました

ので、「学ばせてもらいました、ありがとうございます」という気持ちで、これからも稽古をして、成長していきたいなと思っています。







「よっしゃ!優勝してやる」という気持ち満々だったので、

試合が終わって、今までのすべてが否定されたようで、しばらく(せいぜい20分程度)頭が真っ白になって何も考えられませんでしたが、

あることに気がついて、「あ!」と思い

「俺って本当にヤバい!ツイてる!」

と確信するに至りました。





ほとんど人に言ったことはないのですが、自分が戦う理由は、「神さまのため」なんです。







自分が戦うべきだった相手が次々と辞退したり、

トーナメント表の組み合わせの運のみによって、私は3位をいただきました。



もちろん、潔く、「私の実力ではないから」と受けとらない選択肢もありました。

「何か釈然としないものは残る」は、人間個人の見方。



それは、それで取っておいて、私にツキを下さった神さまを讃えるべきなのです。



「ありがとうございます!」と心の中で大声で叫んで、精進を誓えばよいのです。







神さまは、あなたの都合に関係なく、あなたに最高のいいものを与えたがっている。



それを受け取る受け取らないは、人間の自由です。







自分のありのままを肯定できない、愛せない人がたくさんいますけれども、

「自分は自分のこと好きになっていいのかしら?

私のことを周りの人はみんな批判するけれど・・・。」

というブレーキがかかっている。



関係ありません



いいんです





自分いじめは、あなたのすべてを愛してくださっている神さまを拒むことだよ。

それって、すごく悲しいこと。



勇気を出して、無条件に自分のすべてを許して、愛してみると、

すべてがうまくいくことが分かります。









100メートルを10秒で走る。



陸上の試合であれば、自分の力のみでなければいけませんが、

私たちの世界では、車を使おうが、エフワンカーを使おうが、飛行機を使おうが、全然反則ではないんですね



それでいいんですか?

って

いいんです。



人間の世界のことは、ゲームを楽しむために、人間同士でいろいろな束縛をつけている。



その小さな世界が世界のすべてになってないかい?







心の世界に行くことは、断じて現実逃避ではないんですね。



みなさんは、洞窟に映った影の世界のみで生きてそれを現実だとおもってあがいていますが、

洞窟出た陽のあたる世界こそが現実なんだよ、ということを言いたい。













何か言われると思うと説明しづらいし、「おかしい人」と思われそうなので、あまり人前で言うことはないのですが、

神さまはいるんです。



守護霊さんとかいますし、

指導霊と言っていいのか分かりませんが、いろんな仏さまとか、愛の神さまとか、無数にいて、

必要な時に、私にインスピレーションをどんどん与えてくれたりするんです。

魔法じゃなくて、「道理」とか「法」をくれるんです。





潜在意識というか、高次意識というか、

阿頼耶識とか、そこらへんから、無限の知恵のうちの私に必要な日ごとの糧がぱっと与えられるのです。





顕在意識のみで生きていると分かんないです(→o←)ゞ



人間が、「目」を閉じたまま、目を閉じた人同士、あれこれ考えて、綱引きをしながら、「どの経典や宗教がどうの」いるから分からないわけであって、

自分自身「目」を開けたら、ぱっとわかりますし、確認できます。



「宗教」というのは、単に根本的なものの、人間側の限定的な解釈でしかなくて、その違いにこだわるのは愚かなこと。

彼らは、本当に神さまの救いや赦しを心から信じることが出来ていないから、神さまを自分のために利用して、他人に対して不寛容な態度を取る。



光は、自分のうちに灯そう。

隠しているはずの光が、ほのかに自分から漏れて、

他人から「あ、あの人はなんか輝いてるな。どうしたんだろう。」と、魅力的に思われて、

「なんとしても、この人から秘訣を聞き出そう」と思わされ、聞かれても、得意げにならないこと。









大多数の人々は、目を閉じた生き方の方が正しいと思っていますし、そっちの方が安心するようなのですが、やっぱりそれは違います。







神さまって、「魔術」とか「不可解なもの」では決してなくて、

誰もが、理性と行いによって確認できる「法則」とか、「理法」。

原因があったら、結果がある。



自分の行った行為や言葉は、例外なく自分に戻ってきます。





至極シンプルなんです。



どうやって確認するかといったら、

実際にやってみながら、それを忍耐深く静寂の中で確認していくうちに、「あ、あ、分かる。やはり!」という確信に至ります。



そこで、大切なのは「我」を棄てること。

思考することは大切なんですけれども、「我を守るため」の恐れの混じった思考になっていませんか。



神にすべてをゆだねきること。

自然の流れにすべてを任せきること。



そうしたら、神さまが、自分に無限の力を注いでくれます。



いちばんいけないのが、「恐れ」なんです。

あらゆる恐れこそが、ぶつかり合うと、本当に「悪」をつくるんです。





人がどうこう言ったとかじゃなくて。

自分の行いと心によって、自分に返ってくる縁起やカルマ。





いい言葉をたくさん使う。

人に対して優しい行いをする。

怒りに対しては、怒らないことで打ち勝つ。











自分の思っていることは、違うのかな~という見方が「人間」の見方でどこかにこびりついていましたが、

いろんな本を読んでいるうちに、「あ、やっぱり合ってた!」と自信を持てるようになりました。



文字で知ってるだけじゃダメですよ



「これはどういうことだ?」と、考えているだけではダメですよ



あとは、実行あるのみ



心の休まるいい言葉を聞くことは「気休め」になりますし、それはそれでいいことです。



でも、行ってみると、救われたことが確信できます。









最近読んでた本。





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次回の試合では、優勝しますo(〃^▽^〃)o



自分に関わる全てのことに感謝しています。

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2013.07.16 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
そういえば、一年の半分が過ぎ去ったということです。



2012年で非常にしんどい思いをしていた自分は「今年こそは!」と決意を新たにする。



毎年、初詣は、島根県の八重垣神社と、出雲大社。



めったに書くことのない絵馬を、奉納した。



たしか、

「強くなる」

だったと思う。





「強くなる」とはどういうことか。



神さまからその答えを与えられた。



決して、我を張るということではないということ。



人を蹴落とし、優位に立つということが「強くなる」ということではない。



「自分に克つ」ということ。



自分に克つということは、

「自我」を棄て、「真我」に生きる、ということ。





真我に生きるとはどういうことか。



「私が生きる」のではなく、宇宙によって、全面的に生かされ、ただ導かれてるということ。



そこに、一切の不安も恐怖もない。





自分と他者は別々ではない、ということ。





「人の心の奥底は無限だ」とことばでは知っていたが、

ふと、仕事の帰り道に、夜空を見上げて、小さな田んぼ町の中の宇宙の大きさを想う時、

「自分は、無限のなんたるかを一切知ることができない」と絶句した。



そして、心の中には、その宇宙を凌ぐ、大いなる宇宙が息づいている。



キリスト教の信仰では、この大いなる宇宙を創った神自身があまりにも罪深い人を愛されたため、人となって私たちのうちに宿られたという。

つまり、私たちのうちには、目で捉えることのできる宇宙一切のものが、一切余すことなく、完全に与えられているのである。



そして、神自身を、「私」はリンチ、暴行し、あらゆる悪を行った挙句、吊りあげてむごたらしく殺してしまった。



なんという馬鹿な神であろう!



しかし、なおその神は私に一切の障壁なく、おのれのすべてをかけて私を愛して、すべてを与え切ってくださっていた。



なんという馬鹿な神であろう!





しかし、私も、そのように馬鹿でありたい。

そのように、馬鹿を貫いて死んでいきたいのだ。











心の教えというものは、単なる目に見えない気休めのように、感じていた。

なぜなら、多くの人が、それに気がついていないから。



でも、やはり説明できない「確信」が、私のなかに生きている。





今回立てた「強くなる」という誓いは、

私の中の過去のわだかまりとの戦いだったのかもしれない。



「自分は正しくて、相手は間違っていた。」

「あいつは最悪な人間だ」

という気持ちに心が引きずられ、結果として、私は私自身を苦しめていた。



怒りや、悲しみや、悲嘆や、落ち込みや、

そして、不安や恐怖。



いつも、自分の中には、心休まることのない不安や緊張が入り混じっていて、いつもそこから抜け出す方法を考えていた。





答えは、

「許す」



「あわれむ」

そして、

「怒らない」



ということだった。











すぐれた人がいたら、尊敬して、尊重し、彼らを讃える。

そして、自分を傷つける人がいたら、彼らを許すこと。



また、自分自身を全面的に許す、ということ。



自分にとっていいものだけでない。悪いことも含めて、あらゆるものに、無条件に感謝するということ。





何事も、自分を勘定に入れずによく見聞きして、分かる、ということ。





それを学び、幸せになるために、私たちはそのような課題を与えられています。





神から与えられた試練は、ときには死にたくなるほど重くのしかかってきた。



しかし、学ぶことや恵みは、その何百倍も与えられる。



さえぎっていたのは、小さな小さな「我」(エゴ)でした。



人と人との小さな我のぶつかり合いの中で、それが実在に見えてしまい、それがやはり現実なのだと、私たちは錯覚するようになり、そこで苦しみが生じる。





私たちのうちの真我や仏性を信じよう。



そして、他人から何を言われようが、

一切の人からの見返りを求めず―いや棄ててもいいから、

あなたの最も善いと思うありとあらゆる善行だけを淡々と粛々と行い続けよう。









誓いを立てたから、空手を再開して4カ月。

まさか、試合のマットに立つほどまでになるとは思わなかった。



ひどい鬱や吐き気に苦しめられ、体重も減り続ける。もうだめだという逆境も経験した。





でも、ここまで来れた。



初めに目標にしていたジャンピングスクワット250回も、はるかに超えて、400回飛び終えることができた。







我を張り続けると、人は弱くなる。



我を棄てれば棄てるほど、

人を許せば許すほど、

神は、すべてを注がれる。

私は、与えられたすべてを、あなたに帰す。





相手に、心からの尊敬を込めて戦おう。



勝敗よりも、はるかに偉大なもののために戦おう。





天地万物は一体。すべてに感謝をこめて。









今、改めて読み返しているお釈迦様のことば。

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愛しています

ツイてる

嬉しい

楽しい

感謝します

幸せ

ありがとう

赦します

2013.07.12 Fri l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
告白~私、コウフクノカガクでした


タカシの誕生日ということで、ある程度過ぎたら課金しようとおもっていましたが、それが本日でした。

49冊も売れて、少し驚いています。


そして、退会してから、2ヶ月が経ちました。

幸福の科学から電話で圧力がかかってきたりしたこともありましたが、自分の心と向き合いながらノートに何冊も書きつける日々。


今回は、「怒らない」「許す」
そして、それを妨げる「悪徳裁判官」について。


種村さんのブログにもありましたが、「被害を受けたり騙されたりしたカルトに対して許す」ということ。

そうして、次の道が開けて、自立ができるのかもしれません。

赦しや、怒らないことは、他人のためではなく、本当は自分自身が自由になるため。

確かに、許すことや怒らないでいること、何をされてもニコニコしていることは、勇気がいりますが、
それができたら、おどろくほど自分があたたかさに包まれていることがわかります。


幸福の科学は、敵対者に対して、すぐに「地獄的な波動」とか「悪魔だ」とかいって、その人の細かい欠点や性格をあげつらって、「前世は何何だ」と脅してきますが、
そういうことをするのは、実は本人に「コンプレックス」があって、そこに集まる人もやはり、「コンプレックス」を抱えている。
そして、本当の意味で「幸福」でもない。
自分に嘘をつきながら盲信にしがみついているのです。
そして、真面目な元信者であるとか、アンチをしがみつかせようとする。
「あなたはこういうところがダメだ。間違いだ。」と重箱の隅をつつくようにして、「あなたのため」と言いながら、相手の悪口をネチネチと言ってくる。
「寛容」とはいいながら、人格的に完璧でないと認められない。


すこし、優しい人だと自分を責めます。裁かれるのを恐れます。
怒れる人だったら、「ふざけんな」と反論してスッキリします。

自分の中に、幸福の科学によって植え付けられた、「悪徳裁判官」がいます。
そして、「劣等感」とタッグを組んで、自分をいじめるのです。

不安を植え付ける者は、悪魔ということです。


それが見抜けると、何かが変わってきます。

相手の「毒」を食べる必要はありません。

相手の出した「毒」は、そのままスルーして相手にお返ししてあげましょう。

そして、キッパリと「もうあなたとは縁を切ります!」とお別れしてみてください。

そして、私自身はニコニコしていることです。
あと、「ああ、この人は劣等感で悩んでいるんだな。早く解放されますように。」と祈ってみてください。


スッキリして、あたたかい気持ちで生きることができますよ。



そしたら、何を信じたらいいか。
何を指標に生きていけばいいか。

アウグスティヌスは、「外に出ていくな、内へ戻れ。真理は内なる人に宿る」と呼びかけます。


ありのままの自分、大本の自分を愛して尊重し、尊敬すること。


私は、やはり無限の愛を供給してくださる神さまとか、天使、守護指導霊は私たちの心のうちというか奥にいて、
心をそちらに向ければ、明るく導いてくださっていることに、ある種の確信は持っていますが、
そこまでしなくても、
私の中にある「善我」や「真我」をしっかり信頼して、そこにつながっていることだろうと思います。


どっちが上だとか、どっちが深いとか、そういうことではなくて、宇宙の中で神さまに与えられた自分の役割をしっかり見つけることです。


ではでは、みなさんにたくさんの喜びと幸せがありますように。
2013.07.07 Sun l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
ひとり、自分と向き合って、心を振り返りながら、自分の想いを観察していきます。
そうしながら、汚れを取り除いていくとき、とても幸せな気持ちになります。

人に笑顔で接する。
道端の掃除をする。
周りに感謝を捧げる。

やはり、「神さま」は、心を磨くこと、人のためになる行い、愛することのなか、祈ることのなかに見えてくるものだと思います。

私たちは、神さまからの分霊をいただいているのだということ。

そして、私たち自身の心の奥の奥の声を通して、語りかけてくる、ということ。



そんななかで、
「ああ、この感覚は幸福の科学時代に味わったことがあるものだなあ」とふと思うと、
私の中で、とんでもない心の痛みが訪れました。

その根本に、「大川隆法」がいるのです。
お前のいる場所よりも「幸福の科学」の方が次元が高い。
愛の神、エル・カンターレこそ戻るべき源だ、
と、彼らは干渉してくるのです。


「だったら、何だろう。
私のいる場所もまた、ひとつのマインドコントロールの下に置かれているのか?」
「私の手にした幸福もまたかりそめのもので、騙されていたに過ぎないのか?
では、真実はどこにあるのか」

と、暗闇に突き落とされたような気持ちになりました。


が、


少し落ち着いて、考えてみますと、
人を不安に陥れたり、都合の悪いものを悪魔と称して排除したり、いばったりするようなものが、果して本当に「善いもの」なのか。

あるいは、「どちらが正しい」「どちらが上だ」といういい争いの中で、得られる答えは仮に正しかったとしても、「幸福」でありえるのだろうか。

揺れ動く心の中で、私の視点は実に狭くなり、
光を見ているようで、事実上、心の平安はあり得ないわけです。


結果として、私たちは迷う。



ということを、冷静に考えた際、
やはり、戻るべきところは、我々自身の内側なのです。
「いかにしたら、私の心が平安で、幸せに暮らすことができるか。周りの人にあたたかさや光を投げかけてあげることができるか。」を考え、実行すること。


私たちがもとめた、「幸せになれる心の教え」は確かに真実だったのかもしれない。
だから、集まったのでしょう。
しかし、盲信に因る果実は・・・?


私たちの心は、「依存する対象」「依るべき価値観」を求めることで、苦悩します。

かといって、自分自身も信じることができない。


正しいのか、正しくないのか、
壮大なことを頭の中で考え始めることは、すべて誤謬です。

「迷いの中の是非は是非ともに非なり」です。



「他者がどうこう」、「人にどういうことを言われて干渉されるだろう。」
「他人になにをされた」「何何をしてくれなかった」
ということに心の焦点は当てる必要はありません。


裸の私自身の心と向き合って対話してみることで、見えてくるものがあるかもしれません。

そして、思いなすべきは、
「私がほかの人に何をしてあげたか」「何をしてあげているか」
というそのことです。

それを粛々とこなしていくうちに、
私たちの心のうちには、何物にも代えがたい豊かな宝が蓄えられる。


それが、本当に大切なことではないでしょうか。






2013.07.03 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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