上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top ▲
「魂が腐っていますね」と言われた。

たしかに、その通りだろう。



幸福の科学は、「地獄とは魂の病院なのです」と言ったと思う。

だとすれば、その「魂の病院」を必要とする人は、すべての人間に当てはまる。


イエスは、「救いを必要とするのは、健康な人ではなく、病の人である」と言った。

また、仏教というのも、心の病院であるととある本に書いてあった。


「宗教をそんな風に捉えるな」という人もいるかもしれない。

では、武道や格闘技のの稽古に励む人は?

私も、空手の稽古に通っている。
毎回黒帯の先輩にノックアウトをくらいへばってばかりの私に、ある時、師範がこのようにおっしゃった。

「弱いから、道場に来るんです。強い人だったら道場なんて来る必要はありません。
みんな、初めから弱かった。初めから強い人なんて道場にはいません。」
と。


パウロは、告白する。
「私は、弱い時にこそ、強い。」と。

生活や、日常において、自分の弱さを自覚する時に、
一義的ではなく、様々な局面で、彼の言葉が、身にしみることがある。




問題なのは、自分自身の「罪」、「魂の腐り」に気がつかない人。

キルケゴールは、絶望とは罪であると述べており、「罪に気がつかない」ことの絶望の深さを強調している。


尾崎豊は、
「生きること、それは日々を告白していくことだろう」という言葉を彼の墓に残している。

生きることは、罪を犯しながら、魂を腐らせながら生きのびていくこと。

しかし、それを受け入れながら、なお私を死に至らせないものがいる。

そのものに、私は、私のありのままをすべてさらけ出す。

そして、人生のすべてに「イエス」という。いわれる。


私は、罪の告白と、そして賛美と感謝をそれにささげる。

そして、それが生きるということなのだ。

生かされる、ということ。



「○○教」が正しい、どちらが上だ、ということは、二の次だ。

いや、迷いだ。煩悩や罪の一形態にしか過ぎない。



皆が、罪人。
いいかえれば、誰もが自分の背中を見ることはできない。
大切なのは、お互いがお互いの背中を気遣い合うことなのではないか。












スポンサーサイト
2013.06.06 Thu l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲
何週間か前に、上祐さんのトークショーに出席。


休憩時間、目の前に上祐さんがいたので、

幸福の科学問題について少しお話しました。


離婚問題について、元妻のお手伝いをしていた方から話を聞いたよう。

「いやあ・・・あれは、隆法さんも被害者でしょうねえ」

「あの人がサポートタイプだったらよかったかもしれませんけれども。」

「隆法さんのやってることは、法的にもどうかなあ」



私から質問。

「騙されたカルトの教祖とか、グルとかにも感謝することって可能なんでしょうか?」



よいことは、学び、

悪かったところは、許すことです。

そうして、はじめて自立ですね。


とのこと。



そうですよねー

嫌なことを引きずっていたら苦しいものはあります



オウムというカルトを経験しながら、その言葉をさらっと発した上祐さんの言葉にはすごく重みがありました。



う~ん

いわゆる「アンチ」のようではなくて、

敵がいても、「戦う必要はない」でいられる場所に落ち着いていられる人間を目指したいものです。



敵や、相手がどうのこうのよりも、

まずは、自分自身がどう生きるかが大切。



ひょっとしたら、それが一番の攻撃なのかしら。

というか、私自身が、天の声に従って生きていたら、

勝手に仕掛けた相手から崩れていく。




本当に、自分はまだまだ。

未熟すぎます。

時間をかけて、苦しみも受け入れて、自分をきれいにしていこうとおもいます。


合掌。
2013.06.06 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
先ほど、親から聞いた話なのですが、
幸福の科学の東京のほうの青年会あたりから、自宅に電話がかかってきて、
私にネットでの当会批判の言説をやめるようにと圧力がかかってきたとのこと。


そこまでするようになったか。

やめてみて、カルトの恐ろしさに気がつく。

そこでひいてはいけない。

逆に電話かけるくらいということは、
ほおってはおけないくらい向こうにとって私が危険ってこと?

アンチ皆さんのブログのほうが気合い入ってると思うのですが(笑)

種村対談とか、
きょう子対談なんでしょうか。



信者の母は、
「あなたが何信じるのも自由だけど、
ほおっておくことは出来ない?
やめてね、そういうのは。」
と。

子ども時代から、ずっと泣き寝入りして被害者のまま苦しんでいた自分。
それではいけないし、言論で戦う義務がある。


「言論の自由がある。
それに苦しんでいる人だっている。」

「今は時代が変わる維新のとき」「あなたは世間知らず」「きょう子は金と家を貰って裁判に負けたのよ」
論点をコロコロすり替えて、何が言いたいのかわからなかった母…。

今まで見てきたすべての信者に共通する特徴と同じ。

相手を揺さぶって動かそうとしているようで、
本当は本人が一番揺さぶられ動かされていく。



自分が親を赦せるようになった、
感謝できるようになったのは、
マインドコントロールからときはなたれから。

イエスが、
「平和でなく、剣を」ととき、
家族の分裂を言ったという不可解な箇所がこれまで以上に身にしみる。


カルトに対する信仰こそ、人を苦しめる最後の執着で、魔なんじゃないか。
それを知恵の力で打ち破ったとき、暖かくてほのかな光が見えてくる。


ただ、自分が幸福の科学批判をしてるのは、
複雑で大きなものの前に泣き寝入りしたくない、ということ。
それだけ。

必要以上には戦わない。

適宜、必要な分だけ戦う。
そして内部を世に問おうと思う。
2013.06.04 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。