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25万部だったら、ベストセラーなんですけれど(笑)



5部くらいDLがあればいいかなーなんて思っていたのですが、気がついたら、2桁に達し、

ついに25部にまでヾ(@°▽°@)ノ



作家の臼井正己さんと話していたときには、「10部DLされたらええほうやろ」と言っていたのですが、予想以上で皆さんに感謝です。



こちらの電子書籍。

私、幸福の科学信者でした



告白 私、幸福の科学信者でした



http://p.booklog.jp/book/67062



まあ、部数とか、売名目的よりも、ひとつのささやかな自己表現を形にしておきたい、それを衆人の目にさらして見せたいという願いをかなえるのが目的のようなものでして(;´▽`A``





さて、

正式に、幸福の科学に脱会届を出してから、2週間近くが経ちます。



家族みんなで旅行に行ったら、泊まった先が幸福の科学の正心館で、

ことのほか職員さんが親切で、「自分は間違っていなかったよな・・・」とひどく心を痛めていて、

目が覚めたら夢だったとかいうことがあったりしましたが





あ、そう言えば、体調のグラフをつけているのですが、

脱会翌日から、急に体調が良くなって、ものすごく心が穏やかになってとらわれがなくなっっているなーということを感じています(‐^▽^‐)





カウンセリングを受けたり、並行してヨーガやヴィッサパナー瞑想に取り組んでいます。

自分の呼吸の動きを丁寧に観察しながら、

その都度わき上がってくる、心の動きに「雑念」のレッテルを張って、それを丁寧に観察していく作業です。



「幸福の科学」という壮大な妄想と欲望・煩悩、まやかし、

また、それに対立したり、抜けだそうとする心の動きもまた壮大な妄想や欲望・煩悩でしかなかった、ということに気がつきつつあります。



逆に、今までの「心の修行」なるものが、偽物の方向に向かっていた壮大なまやかしであったとも。



大川隆法の教え(ほとんどの新興宗教もそうかもしれない)が、悟りの名を被った、欲望であることも。

それに、欲望をくすぶられた私たちも、欲望でもってして振り回されていたこと。



「どの悟りが最高だ」とか、「自分たちが上」だとか、「自分は、何次元の心境だ」というのも、

実は、煩悩。煩悩そのもの。





少しづつ、しがらみをときながら、

13歳のとき以前の、自然な自分に、もとの自分に、そして、新しい自分に戻り、

自分を棄て、世界に奉仕できる私を作っていきたいと思っています。



合掌



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2013.05.16 Thu l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
脱会通知書をたった今、出し終わりました。



来週が、堅信式なのですが、私は申し込まずなので、かわりにKK脱会をもって自分の魂に刻みこみたいと思います。



2000年から、13年間ありがとうございました。

人生の半分以上在籍していたことになる。




13年前、「三帰」時の写真をみていました。

当時はまだ、精舎もなかったH支部。

ビルの3階を借りてビデオを拝聴していたりしました。





支部長に、「今は分からないけれども、あなたの魂のテープに黄金の文字が記されている」とにこやかに言われたことを思い出します。



本当は、ある種の呪いだったのかも(笑)




詳しくは、電子書籍に書いてありますので、ご参照ください(^_^;)




http://p.booklog.jp/book/67062

告白―私、コウフクノカガクでした






たくさん、葛藤しましたけれども、

葛藤すること自体が苦しみで、誠実であればあろうとするほど、「他人を素直に信じることができない」という自我の曇りをつくってしまって、一歩が踏み出せなかったのだと思います。




「涙を耐え忍んだ先のいつかの約束された幸せ」なんて、永遠に来ない。

たった今、幸せにならなくちゃ。





二年前、カトリックの洗礼を受けるとき、授けてくださった神父様との面談で、「その大川さんとは縁を切らなあかんで」とやさしく諭して下さったのですが、信仰は捨てていたものの、脱会の仕方が分からず、「一応籍は置いておいて、スパイやウォッチャーとして出入りしとくか」と思いやってきました。



それに、会員のすべてがすべて悪い人ではないし・・・。




・・・でも、もう潮の引きどきですね(^▽^;)



自分が、優しすぎたのか、優柔不断だったのかが災いしてかえって、多くの人にも迷惑をかけてしまう結果となりました。



そして、抱かなくてもいい恨みもたくさん抱きながら、離れられず・・・。




でも、

これからは、心の底から幸せを感じられるように。

本気で笑えるように。

すべてのものに感謝できるように。




夜空を見上げます。



果てしない、この宇宙、世界、そして「私」を作った、「御手」は何ものか想いを馳せる。



その中で、生かされている「私」とは、「人間」とは何者なのだろうか。





昔は、「自分には大きな使命がある」

「風の理想を実現させて、日本を、世界を変えていこう」

「新しい歴史を作ろう」

と心にロマンを抱いていた。



でも、本当は、宇宙から見たら、すべてが一体で、それぞれに神の手によってなすべき役割が与えられてるだけ。

いや、神が私をつかっていると言ってもいい。





少し落ち着いてから、またいろいろと考えていきます。




スッキリしました。



就職失敗するわ、家庭不調和はあるわ、病気になるわでしたが、

没落の法則から逃れられるでしょうかね





ワインを飲んで一人でお祝いしていますヾ(@°▽°@)ノ



2013.05.04 Sat l 未分類 l COM(5) TB(0) l top ▲
悪意のある人が私を責め立てなくても、

実のところ私が、いかに卑劣で卑怯で弱虫な奴かはわかってるし、おそらくその底は自分ですら直視できないんじゃないかなあ。



いじめの現場を見て、影から笑ってしまう自分。

偽善者が嫌いで、「不謹慎な正論」でも「そうだ」と納得してしまう自分。

そして、思っていても、空気からつまはじきにされることを極度に恐れて、人前で本音を押さえつけて黙っている自分。

(勇気を出して赤面しながら、教職のプレゼンの質疑応答で、立ちあがって、ちゃぶ台をひっくり返すような質問をよくしたりもしたのですが・・・。)

あるいは、自分かわいさに、「やさしさ」だとか「福祉」だとかいった美麗字句を持ちだして現実を見ようとしない自分。



というか、誰だって、自分が「善人の側」についていると信じていたい心理はある。

「みんなの幸せ」のようなものが何の疑いもなく不文律として、共有され、それが目的として話し合いや分かち合いが行われることがほとんどだし、

それを守れない人間は、「この人おかしい」でつまはじきにされて、居場所がなくなるのがオチなのです。



その、向かっている「善」なんていうものも、あいまいで、

国家とか、会社とか、宗教とか、クラブとか、友人関係によって変わらざるを得なくなってきます。

悪なんてものは、「善と信じてやまないものの対立」のなかから生じるものでしょう。



「自分」というものが、本当のところよく分からなくなってきたりします。



そう、人間は、本当に何が本当の善であり、何が悪か知ることもできないし、行動することもできない。

しかし、絶対的な善に向かうことを義務づけられているのです。



不幸になりたくて悪を犯す人などおらず、やはり、悪を犯す人は何かしら幸福の一様態を満たすためにそれを行っている。





大学入学時に読んだ、アウグスティヌスの『告白』を読み返しています。

私の洗礼名でもあります。



カトリックの洗礼を受けて、数年してからというもの、より一層自覚することは上記に挙げたような「私がどれだけのロクデモナイ野郎か」ということ。



世界の名著 14 アウグスティヌス/中央公論新社

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ところが、アウグスティヌスの「告白」は、自分の罪の「懺悔」が救いだして下さった神への「賛美」になり、そして「感謝」になる。

悪の告白であると同時に、自分の善の告白でもある。

しかし、すべてを、賜物とみて、決して自分を誇らない。



毒麦の混じった教会。

かえって欠点をしのび愛し合うことによって聖性は増す。

腐敗を含みながらそれに耐えている教会の姿が聖というのだ。




本当の幸福(浄福)というものは、「道」であって、やはりアタマで考えるだけでなく、

身体の声や、心の声に耳をすませば自ずからやるべき善行が分かってくるのではないかと感じたりしています。




とにかく、私というのは、私一人で生きているのではなく、謙虚に「生かされている」という感謝の方向に投げ出すことが大切なのではないかと思っています。



そして、「自分自身の身丈」を正しく知ること。まずは、自分に与えられた恵みを知ること。足ることを知ること。

自分は、「神の御手の中の役割を果たす道具。」として捉える事。




幸福の科学のさまざまなアンチブログで、

大川隆法は「親からありのままを認めてもらえなかったアダルト・チルドレン」「自己愛性人格障害」「誇大妄想症」「躁鬱を繰り返している」といった病理が告発されており、それについていく信者も教祖と同じで、「自分が特別だと思いたい」という心理があると指摘されていましたが、

その真偽については私からはなにも言いませんが、

私にもその病理はあるのは否定できない、ということです。



自分も、「有名になりたい」とか、「特別になりたい」とか、「大物になりたい」とか、

地位や名誉や財産を他人以上に求めて、

あるいは、菩薩になりたい、如来を目指したい・・・など霊的ヒエラルキーで上になろうとも思っていましたし、「エル・カンターレ」の名声や偉さを広く世界に伝えたいとも思っていたような気がします。

それに「夢」とか「理想」だとかいった美麗字句を並べていましたが、しょせんそれは、失われてきた自尊心の穴埋めでしかなかったのだろうかとも思っています。




何かの拍子に、名声を得た自分が彼のように人を踏み台にして、多くの人から恨まれる的になりながら、そのまま突っ走ることだってあるかもしれない・・・いや、確実にそうなる。

自分が罪びとだということを「告白」しながら、「神」に依らねば、私は何もできない。

自分に厳しく言い聞かせたい。




「あなた方皆の中で最も小さいものこそ、最も偉いものである。」(ルカによる福音書9章)

「上に立つ人は仕えるもののようになりなさい」(ルカによる福音書22章)




多くの新興宗教が、「自分のところこそすごい!」と喧伝するけれど、なんだか、そこに隠れた名誉欲とかないかな。



何も要らないので、

自分が大きくなることを考えるより、

他人の意志の中で持ちあげられることなんかよりも、

はかりしれない大きなもの意志のなかで、必要な役割を果たせるように、「小さく」ありたい。



仮に、大きな仕事を与えられたとしても、私は、私の「小ささ」のうちに止まっているように祈りたい。


2013.05.01 Wed l 未分類 l COM(1) TB(0) l top ▲
観察していると、カルトと言われる宗教に入って熱心に信仰し、学ぶ人ほど裏ではその奥になにか心の闇を抱えている人が多いようです。



そして、案の定、父親が支配的だったとか、母親が五月蠅く教育熱心だったとかいうことをきくことがよくあります。





総じて彼らは、やさしい。

自分に対してどこまでも誠実であろうとする。

どこまでも、清きまったき者であろうとする。



「いい人」をどこまでも演じようとする。そして、少しでもそれから外れると、世の中の善良な人々に糾弾されていく。



傷つくこと、傷つけられることにひどく敏感。



傷つけられても、他人の言いなりになるしかない。



そして、怒りを抑圧し続ける。



皮肉なことにそれゆえ、社会や世間に対しての敵意もなみなみならない。



誠実な彼らは、いつのまにかどこかでつまはじきにされて、「反社会的」になる。

あるいは、アルコールやドラッグにおぼれる。



社会は、彼らを非難する。

彼らは、そして、さらにそんな自分を責めていく。



自分は、地獄に堕ちる以外道はない、と。



愛情を与えてくれるものにことどとく依存しようとする。



恐れが裏にある愛情がある。



逃れることはできない。



真面目な人間ほど、真面目にカルトにおぼれ、真面目にドラッグをつかい、真面目に壊れていく。







私自身も。







自分一人の力ではどうしようもない。

誰か専門家の助けが必要だ。









今朝の、母親が唐突に私に語ったこと。





「アスペルガーの人は、親の言うことをしっかり聞かなければならないんだって。

非常識だから。

親が、世間なの。

ネットにも悪口とか書いちゃダメよ。」





太宰治の『人間失格』の

「世間とは、あなたのことでしょう。」というフレーズをありありと思い出したりもした。



人を怒らせるのが怖い。争うことに恐れを感じている。

だから、何も言い返せない。





でも、自由にならなきゃな。

反抗しなきゃな。







いつも、勇気をもらってるのが種村さんはじめ、アンチさんたちのブログ。



あんなに、タカシを笑い飛ばせるなんてうらやましいなと感じたりします:*:・( ̄∀ ̄)・:*:



一人で恐れながらウジウジと考えても分からなかったことに、背中を後押しされています。

尻馬に乗るような形ですが、応援させていただいています。



本当に感謝です







叫んでみたいっすよ。





偽仏陀バカボンF××K

って(笑)







真実を語るブログで、心を射抜かれるような投稿に出会いました。



神への裁き。神の沈黙と、絶望。自殺願望。





私もカトリックの洗礼を受けてからも、それは経験しています。



彼女はどう、「内なる神」と出会ったのか。続きが楽しみです。





もうひとつ、ダブルバインドについて学問的に解析していた記事があったので、「これだ」と思いました。









「いつでも、抜けられる。」



だからこそ、「いつまでたっても抜けられない」



「優柔不断」を超えて、麻薬のような共依存の関係にある自分に気がつきました。







親子関係も、宗教関係も・・・。









脱会の時は今!



いつ脱会するの?今でしょ!





というコピーに煽られて、現在脱会通知を書いています。







『太陽の法』p303



執着を断つことは、人生における一大決意だと言えます。つまり永遠の人生において幸福を保証する英断であります。

(中略)

世の人々をよく見てごらんなさい。執着のある人々のなんとよわよわしいことでしょう。

なぜ、自分の地位や名誉、あるいは、他人と比べた年収などに執着するのでしょうか。

なぜ、学校の名前や会社の名前に執着するというのでしょうか。

そんなものに執着して一体何になるというのでしょう。





↑タカシ、お前はどうなんだって(ノ´▽`)ノ ⌒(呪)





皮肉なことに、あなたのこの言葉が、今の私に勇気を与えてくれました。



私自身がこの期に及んでいちばんあなたに執着していたのかもしれませんね。





カトリックでは、洗礼を受ける、つまり新しく命を与えられるには、一年以上の求道期間があります。



私が、脱会という一大決意をするまでに、5年以上の歳月がかかりましたが、

執着を離れる、偽仏陀の呪いから解き放たれて、新しい命に移行するのにも清められる期間があってしかるべきなのかもしれません。







前は、神など人間の妄想とか、虚妄だとか思わざるを得なかったのですが、

今は、なぜか素直に、私を救いだして下さり、支えてくださっている「神」に感謝できます。





シャワーを浴びたあとのようなすがすがしさですヾ(@^▽^@)ノ







喜びのうちに、ひとり脱会パーティなんてのもアリかななんて思っています(笑)



2013.05.01 Wed l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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