上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top ▲
幸福の科学が、

ネットや週刊誌での報道に対して、「それだけでは本当の姿は分からない」

と、立ちあげたサイト

ボイシー 。




奇跡の体験や、

救世主と出会えた喜び、情熱

感謝の気持ちや笑顔



など。





アンチになってしまった私を引き止めにかかった「法友」たちが説得に使った言葉も、

「本物の幸せを掴んで欲しい」ということでした。



あとは、「未熟な会員があなたを傷つけたかもしれないが、主エル・カンターレだけは本物だから信じてください」と、

あの手この手である。




私も、学生部時代に、

キャンプファイヤーを囲んで、歌ったり、泣きながらの告白を聞いたり、

ほかではできないを体験をしたから、分かる。




一方、

実際に種村修さんに会ったり、きょう子さんに会ったり、

やや日カルトが裁判で負けていない事実など見ると、

教団の中心部は狂気に包まれているのは否定しがたい事実である。





そこらへんに、どう折り合いをつけていくか。



一般世間からどう見られて笑われているか、信者も知らない人はいないだろう。



しかし、どんなにおかしく見えてもついていくのが信仰。





おそらく、「どこかおかしい」と思いながら、カルト教団から踏ん切りがつかない人こそ、

そこでの活動した仲間の本気の姿を真実としか思えない認識があるからこそ、

サイトなどのいろいろな告発を見ても、「こいつらの言うことは魔にやられている」と思うのでしょう。



世間やアンチと、エル・カンターレを信じている人と、どっちが生き生きしている?

お前はどっちの生き方をしたいんだ?

どっちに生き方を賭けるんだ?

と。



賭けです。



・大川が正しい。世間の風当たりにも負けず、最後に勝利する。

or

・大川は詐欺師。騙されて一生を棒に振る。




・大川は詐欺師。退会して、平凡な幸せを噛みしめて生きる。

or

・大川は仏陀。信仰の糸を離したことで、魂は永遠の苦悩と後悔にさいなまれる。





「本気」「情熱」というのは、実にやっかいな問題です。



こて先の理屈は、用をなさなくなるからです。




どこかで、「気にならなくなる」ようになる時が来るのですが、やはり、少し時間はかかります。



し、確かに情熱を傾けた人ほど傷は残ります。



教団を批判して、信者から説得されたり、批判されたりするのも怖いかもしれません。




宗教団体で被害にあったり傷ついたりして、

「何を信じればいいの」と絶望したり、

疑心暗鬼になったり、

すべてを信じることをやめて投げ出したり・・・



命をかけてまで従おうとしたものに裏切られる体験。

すごく辛いのは分かります。



でも、



幸せになれる法則は必ずあります!



すべての宗教、すべての人類にに開かれている黄金律。



「自分にして欲しいことを人にしなさい」

です。



神さまがいるかいないかは、私にもわかりませんが、

確かに、人間の間での幸せになる法則というのは与えられているようです。




悩んでいる自分のことは少し脇に置いておいて、

人の幸せのために何ができるか、

実際に動いてみること。




幸せの法則自体は間違っていなかったのかもしれません。



ただ、その一部の幸せの法則を、教団が専売特許で「ここでしか学べない」と一人占めして、また、「信仰によってしか救われない」と所有しているだけで、

素晴らしいものは、本当は世の中に満ち溢れていますし、

悟りだとか信仰だとか大層なことを学ぶ前に、

シンプルな利他行を日常生活でこそ実践しなければならない。



教団は、「この教団でなければ・・・」「一人で学ぶだけでは分からない」「入って活動しないと分からない」「勝手に学ぶのは自分勝手教」と、団体に絡め捕る論理を駆使してきますが、

まあ、入る入らないは自由として、

そこに集まっている人が、なにか「キラリ」としたものをもっていて、「この人のようになりたい」とあくまでも自然に思うかどうかですよ。



「モノ」を勧めるんじゃなくて、あんた自身の人格を、自分自身の言葉をさりげなくにじみ出すようなやりかたをいたしなさい。



信仰を勧めるやり方は本当にえげつないと思います。



人の自由選択の可能性を失わせた時点で、その団体に入っても「本当の幸せ」は永遠に手に入らないでしょう。





創価学会に折伏されて、「御本尊もらおうよ!一緒に本気でお題目あげようよ」と迫られた時も、

殺し文句は、

「やってみなきゃわかんないよ!」「飛び込んでみる勇気も必要だよ」「やめたくなったらいつでもやめていいから」

です。





組織に所属することと、本当に幸せになることが、一体化され、

「中途半端な」幸せは、クズのような扱いです。



ますます、自分の心の重心を失っていきます。




たしかに、素晴らしい人の集団に飛び込んでいくことで、

自分も感化されるというのはあるので、一義的に団体が悪いとも言えない。






キリスト教などでも、

信者同士が、ネットで教義がどうのこうの、教会の在り方がおかしいだのと論争し合っていますが、

なんのことはない。



正体は、

自分の劣等感の裏返しです。

愛の名のもとに、人を自分の都合よく動かしたいだけです。



それが、克服されない限り彼らは永遠にあれこれと不満を垂れ続けます。

そして、またいろいろと教会をめぐりあるいて永遠に騙され続けます。



善行による救いはなく、イエスという他者による信仰による救済しかありえない宗教ですから、

自分自身を正すという視点が欠如しているのでしょうか。



イエスに祈って永遠の命にあずかればそれで万事オッケーなのでしょうか。





まあ、神の目からみたら、彼らこそ赦されて救われるべきなのでしょうし、

自分自身にも同じ要素が確かにありますから、軽蔑できるほど偉くはないです。



その代わり、一緒にはいたくないですね。




「教会に近づくほど、神は離れる」というドイツのことわざはこのことでしょう。



「愛されたい」病んだ人々の集まりが教会に集まる。

本当はすでに神から愛されているのに、自分でそれを分かち合うことをせず、閉ざしてしまっている。




すこし優しそうな人を見つければ、食いついて、あれやこれやと自分のいいように振り回す。

そして、少し気に食わないところがあれば、人にぎゃあぎゃあ文句を言ってるのも、ほとんどが「愛されたい」病なのでしょう。

「俺のために無償の愛をそそいでくれなきゃそれは嘘っぱちだぜ」と言わんばかりの自己中心さです。

彼らは、人の喜びを素直に喜ぶことができません。



もっとも、そういう人の背景には、「幼少時に親からの無償の愛を受けられなかった」「虐待を受けて育った」経験が少なからずあるようなので、世間を恨む方法でなくて、ACなどの専門の心理カウンセラーさんのところで相談してくださいとしか言いようがないです。



宗教云々の前に、家庭の問題を見直してみては、と私は思います。



愛着の障害をもたざるをえない社会状況になると、ますます社会を敵視するカルト宗教は増えていくでしょう。



難しいし時間はかかりますが、回復の手段は、無理せず、地道に人のために役に立つこと。











誰にもいわれず、自分自身から一歩を踏み出す、与えることを始めるのが本当の信仰だと思います。







カルト団体に対する復讐は、

告発だけではないですよ。



自分が幸せになること。

心の底から笑えること。



恨み、

後悔は

まったくもって逆効果です。




作家の臼井正己さんもおっしゃっていたのですが、

「幸福の科学をやめた人が集まって新しい時代をつくる原動力になることを僕は期待していますよ」

ということ。




ま、とにかく

どの道が正しいか

ではなく、

自分自身しっかり生きることができるか、

ということです。



自分の心が、感じる、確かな幸せの道。



本当に単純です。




人の心を幸せで満たすことを考えると、私もさわやかに生きることができます。

人からしてもらったことに、笑顔で「ありがとう」です。



職場でも、病院のベッドの上でも、人に幸せを配ることはできます。




宗教の真髄があらわれるのは、教会でもお寺でもなく、実に日常生活においてです。



しんどかったら、たまに、愚痴をこぼしましょう。

自分にきれいではないところがあっても、自分を責める必要はございません。



それでも、感謝して、人のために動きましょう。



人の偉さは、知的認識とか富とか名誉とかでなく、目立たないところのまごころです。



そこから、自然に自分にしかできない使命は見えてくるはずです。






今日も、みなさんによいことがたくさん起こりますように。








スポンサーサイト
2013.01.31 Thu l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲
いまだに私には、

「本当に神はいるのか、いないのか。」

「魂は死後もあるのか、ないのか。」

「イエスは本当に復活したのか。」



いわゆる「低レベルな疑念」を持たない

クリスチャンの気持ちが分かりません。



なぜ、誰も「実はすべては壮大なまやかしなのではないか」と思わないのだろうか。



権威ある上に言われたから、「はいはい」なのだろうか。



繰り返し、「本当はわからないこと」を繰り返しているうちに、そう思い込むようになってしまったのだろうか。



いや、「そもそもの問い」なのかもしれない。



「神」と呼ばれるものについて問いかけることは、

人間の深淵とそれを越えるものへの問いかけと同義なのではないだろうか。



だから、永遠に「分かった」ということはないのかもしれない。



死ぬまで、問いかけが続くのかもしれない。



時間には、「クロノス」と「カイロス」の二種類がありますが、

どこかで、決定的な「カイロス」が訪れるかもしれない。

それは、私には分からない。




どちらにしろ、

神の裁きはもちろんのこと、赦しさえも、

私にとっては恐怖です。







そろそろ二年になりますが、

私が、カトリックの洗礼を受けたモチベーションは3つ。



・イエスに従うものとなりたい

・すべての人に仕える

・幸福の科学を離れて、なにか確かな信の礎が欲しい



ということ。




教会に組み込まれたり、

どの教義が優れているなどということは

心の底から避けたいと思っていた。



多くの過ちを犯してきた中世の教会。



本当にもう、政治とかイデオロギーとは切り離して、素朴でありたかった。



私は、ただひとり「単独者」として、「神」の前に立ちたかった。



ただ、私は「祈りの人」となりたかったのかもしれない。




しかし、それは避けられないようで、

中身を見てみると、大きな教会だと、右翼が怒鳴りこんできたり、プロテスタントとの確執があったり、いろいろ。










未だに、私に決定的にかけているものは、

「救われた」という確証である。



イエスは、すべての罪を許して背負って死んだという。



仏教でも、阿弥陀如来は、すでにすべての衆生を救ったという教えがある。



救われたみたいだけれども、やはり私は暗闇の中でそれを確証できずにいる。




私には、ますます自分が罪人であり、悪人だという自覚しか浮かび上がってこない。



人間は、基本的にみんな自分が善人だと信じて疑わず、

自分の信じる善を押しつけるエゴイストであることから逃れられない。



そういう人間を見てきて、私は実に嫌気がさしていた。



しかし、いちばん醜いのは誰か・・・自分でした。





信者が必ず知ってなければいけない、「カトリック教会のカテキズムの要約」を読み終えました。



入門講座は、よくさぼっていた上、分からなかったので、

分かるまで、いろいろなところで聖書を読んだり講座を受けたりしたのですが、やはり分からない。



カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)/カトリック中央協議会

¥1,260
Amazon.co.jp
なぜ、教会がこれをありがたがり、讃えているのかわからない。



私の良心に驚くべきほど響かないのです。



カトリック教会が、「救いだ、権威だ」といくら力説されても、本当に虚しさしか覚えない。



生きづらさや、心の病を抱えていたりする人に寄り添っているか。

「信仰がどうのこうの」などと言われても、それは救いにはならない。




162.キリストの唯一の教会はどこに存在しますか

 ・・・このカトリック教会を通してのみ、救いの諸手段を十分に得ることができます。




166.

教会がカトリック、すなわち普遍であるのは、教会の中にキリストが現存されるからです。




171.「教会の外に救いはない」との主張は何を意味していますか。

・・・教会がキリストによって設立されたものを知りながら、教会に入らない人や、教会に止まらない人は救われることがありません。




173.

・・・キリスト者はたとえ殉教に至ることがあっても、自分自身を犠牲にする覚悟をもってキリストの道をあゆみながら、キリストによってもたらされた良い知らせをすべての人に告げ知らさなければなりません。




212.地獄とはどのようなものですか

地獄とは、自分の自由な選択によって大罪のうちに死ぬ人々の永遠の責め苦のことです。

地獄の主要な罰は、神から永遠に離れることにあるのです。




442.

信仰の徳は、神を信じ、その反対のことを退けます。たとえば、故意の懐疑、不信仰、異端、背教などです。



イメージで言うと、



神は教会にしかいない



教会以外に救いはなし



教会を拒むものは永遠の地獄



あ、だけど、それは自由な選択ですから。




よく考えてみましょう。



選択肢は、教会を受け入れる以外ありませんよね。



「自分で選んだ」ように見せかけて、本当は選択肢がなかった、「偽りのジレンマ」でカルト教団がよく用いる方法です。



・・・といっても、私の知る限り、そういう脅しのようなことをするところは基本的にないです。

信者、未信者、あんまり壁なく仲良くやってます。




ドイツのことわざに、「教会に近づくほど、神から離れる」というものがありますが。





古代の人々は、人智を超越した自然を恐れ、敬い、その奥に「神」を見出しました。

それは、理性に反する迷信として捉えられがちですが、現代だからこそ、大切にされなければいけないと私は考えています。




一神教は、おもに、砂漠など厳しい自然が人間を殺し、対立する地域からうまれました。人々の心を強く「神」に結びつけるために、「私以外に神はなし」です。



一方、日本の多神教などは、モンスーン型の風土から生まれ、自然との共存で、自然の中に「見えない神」が宿っていると考えます。



ところが、

神の声を聞ける特別な人種が現れて、それを盾に人々を支配し、価値観を定めます。

神への取次として、従順さや素直さ、そして財産を貢ぐことを説き始めます。

「宗教」の始まりです。



いつのまにか、本物の「神」そのものと、偽物の神を権威としてでっち上げた「宗教組織」が一体になってしまっているわけです。



疑われると困る。

自分たちの嘘がばれてしまうから。

疑いは地獄に堕ちると脅し、信仰や従順を説く。



この世を疎ませ、「いつか来るであろう」救いを説き、教会に縛り付ける。






教会や信者は、「間違ったもの」、都合の悪いものを断罪するために「神」や「教義」を振りかざす。



「祈り」の恰好だけして、心は全く自分を振り返っていない。



「本当か」と疑いを持つ私は、なにか「やばいもの」でも見るような目で、多くの断罪を受けます。

いろんな人から軽蔑されているのかもしれない。



酷い時には、「あなたは金属バットで撲殺されるべきですよ」などというものもあった。



笑えないギャグだなあと思った。





「何も信じられない」

「じゃあ、自分だけを信じればいい」



とよく言いますが、

その「自分」の信念でさえ、絶対的他者を経由しなければ獲得できません。



ほかのものを信じられないというのも、ひとつの悲しい生きる選択肢です。





「そんなにカトリックが嫌いならやめればいいではないですか」とも、よく言われますし、

私も、神父やシスターなんかに切迫した顔つきで「どうやったら、信者やめることができるんですか」と聞いたこともある。




「来なきゃそれでいいじゃん」という話なのですが、

非常に大切にしたいかけがえのない仲間がいる。



教会の導きがなければ今の私はいないということ。




信じられるものはなにかというと、

教義や神学ではなくて、

本当に素朴な「思いやり」だとか「支え合い」だとか。

あと、「居場所」というのもとても大きいのかも。



そういう彼らに限って、ほとんどキリスト教のことに関しておぼろげだったりする。



そして、「祈りの場所」として、欠かせない。



神の不在を感じつつも、どこかで、「問いかける場所」が欲しかった。



私の場合、四六時中、神について考えているので、ある意味それも「祈り」らしい。

まったく清い心がないのですが。




本当は、「愛」とか「思いやり」のなかにこそ本当の神や仏がいて、それこそが教えを知っていることより尊いのかもしれません。





あと、私は、「日本人」であることを優先したいのだなあと。



「私以外にいかなる神もあってはならない」は、本当に受け付けません。

そこの信仰に踏み込めないので、私はクリスチャンではないのかな、と。



神社や、お寺通ると必ずお参りをして、般若心経を唱えます。



告解で話したら、「それはコミットメントの問題で、議論の余地があるので、罪ではありません」と言われましたが。




諸宗教間の対話では、

信者は、「崇敬」はOKですが、神社でかしわでを打ったり、お焼香をあげたり、「南無阿弥陀仏」と唱えることや、お神輿を担ぐことも避けましょうと書かれていたりで、

どうもこうも、息苦しい感じがする。



「ダメ」と禁止されると、正直とても私は悲しい気持ちになります。




「私は道であり、真理である。私を通らなければ誰も神のもとにはいけない。」

「天下にこの方以外に救いの名は与えられていない。」



のは、もう多分キリスト教の根幹なので、崩せないし譲れないところはあるかもしれません。





私の捉え方。



「すべては、ひとつである」という考え方。



空海という平安時代の僧は、

様々な宗教が入り乱れる日本のなか、度々著書で「すべての教えは根源の水脈がある」と説いて、それぞれに役割があると説いています。



その「根源」が何かは、

私たち人間には認識できませんし、信仰する人によって様々でしょう。



ブラーフマンとか、

大日如来だとか、

父なる神だとか、

本知垂迹説だとか、

天照さんだとかあるけれど、

とにかく「わからない」けど、あるみたいです。



ただ、どこの地域、どこの時代にも、「本源的な原理、存在」「すべての救済の元締め」みたいなものが説かれていまして、

本来宗教とはそれに至る「道」であるべきなのか、と。



どの人類も、同じ根源をもっていて、ゴールはひとつ。



違いを認めつつ、手を取り合って、大きな道を歩んでいく方法を探れたらと思っているが、

自分と相手の境界線をどこに引くかで

なかなか困難なところはあるかもしれません。




「すべての宗教がインチキだ」といい、自分勝手に道を歩んで、悟った気になってる人ほどうさんくさい。



宗教の支えてきた文明が崩れ、最近では、宗教でない(宗教を否定する)精神文明の動きが勃興しつつありますが、功罪両面あるかもしれません。



事業などの成功者に限って、宗教に属してなくても、そういう科学的でない「みえない力」に心を傾けている場合が多かったりします。



お寺巡りや、パワースポットめぐりが流行っているのも、私は日本古来の霊性が復活してきたと思って喜ばしいことと考えています。



教会の在り方とは違う信仰の在り方で、

「宗教の私物化」だとか「異端」だとか、「カトリック失格」だとか、「地獄に行く」だの言われそうですが、

「わからないけれど、なんかいいな」的なのが健全なのかもしれません。




そういう見えない力が素朴なうちはいいのですが、

真面目になりすぎると、「宗教」や「哲学」になってしまう。



私など、哲学の世界で生きています。





表題にもある、「私自身の救い」についてですが、

キルケゴールの『死に至る病』を読んで、とにかく「これだ!これだ!」と衝撃を受けました。

自分の「ひょっとしたら思ってはいけない」思いを、その何百歩先まで進んでしっかり絶望を味わっていた。



キルケゴールという人は、父が神を呪ったことを聞き耐えきれず、婚約者も振り、牧師になる道も諦め、

デンマーク国教会を激しく攻撃していたそうです。



死に至る病 (岩波文庫)/岩波書店

¥819
Amazon.co.jp


この本は、進んだ信仰段階の中にある自分が、絶望の中にある自分を見ているという体裁である。



キルケゴールは、「絶望して、彼自身であろうとする」

すなわち、「絶望しても神にすがらない」という道を選ぶ。

神に「挑戦する」絶望状態。



絶望は罪であるから、それに陥っている自分を罰しなければならない。



神が救いの判決を下しても、私はそれを不当とし、有罪の判決を望む。



惨めなままの自己自身であろうと欲する。



キリスト教徒にとっての最大の罪であることを自覚しつつ、イエスに全身全霊で、誠実に躓くこと。

こうした状態にいる彼は、ただ疑いのうちにいるだけでない。彼は絶大なる苦悩のうちにいる。



「自分はなぜ、他のクリスチャンのように素直に神を信じられないのであろう?イエスが自分の罪を肩代わりして死んでくれたこと、そして復活したことを信じられないのであろうか?

神が自分を創ったのだとすると、なぜ、神はこんなにひんまがった心根の人間を創ったのであろう。」







私にも、

「神が分からないなかで、何かに裁かれているような気がする」という、

「神との断絶」を深く味わいます。



ひょっとしたら、神が私に救いの手を差し伸べているかもしれないし、すでに救っているのかもしれない。それに気がついていないだけなのかもしれない。

しかし、たとえそうであっても、私はそれをすんなりと受け入れられないのです。



救われることが、何かぺろりと舌を出してパラダイスに胡坐をかいているような罪悪感があるのでしょうか。



神の中にしか本物の幸福はなくて、神を拒む者には永遠の地獄しかないと言われてても、なお、なぜか罪に止まっていたい。



キルケゴールは、とどまるだけでなく、神への「反抗」とまで歩を進めています。



自分の醜さもすべて受け入れて、自分であろうとする醜さ。



やはり、「絶望」しかない。






・・・「あまり、難しく考えすぎず、楽になりゃいいのに」とか絶対言いたくなると思うのですが(笑)






第三の道。



私は、マイスター・エックハルトと禅の思想で論文を書いたのですが、



「神対自分」の構図ではなく、



自分を消す。



そこに、神が入る。



自分を棄てることによって、自分を得る。



それさえも棄てる。



神も消える。



で、また日常のなかに戻っていく。




どこまでも、「いま・ここ」に止まること。



2013.01.27 Sun l 未分類 l COM(2) TB(0) l top ▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。