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非常に葛藤していることがあって、自分の中で分裂が起こっています。



一年間近くにわたり、創価学会の折伏を受けてきまして、上手いこと逃げ回ってきていたのですが、「あれれ」という具合に、御本尊をもらう方向に。

それで、「いつ約束を破って逃げようか」「いや、逃げるまいか」ということを考えています。

学会さんの様子や思想も、自分の宗教の変遷過程もしっかり相互に分かっておられますし、折伏の中でお互いの本心を裏表なく伝えました。



自分のライフワークは、やはり宗教、思想、哲学であったりするわけで、古代から世界に流れる超越思想から、現代日本に流れる「あやしいシューキョー」、スピリチュアル、宗教戦争、マインドコントロールまで人間の営むもの全部が対象だ。

やはり、自分自身が「幸福の科学」で胃の痛む葛藤を重ねてきたことが原点にある。



それは、やっぱり、つまるところ「自分自身」の問題だし、人間の理性とは信仰とはどうあるべきか、自由とは何かみたいなテーマにも関わってくる。

「神」と向き合いそれを探す人間とは何かという話にもなってくる。



ただ客観的にデータに集めて見るだけでなく、個人のなかの深いモティベーション、「なぜ」という部分や違和感を、自分なりにその都度納得がいくまで決着をつけていきたいと思っているわけです。

ずっとその作業を繰り返してきました。



自分は、「幸福の科学」の信仰を棄てたわけですが、やはりその過程において、大きな苦しみの葛藤をえて、自分なりの神観、宗教観を自分に対して打ち立てたかったのはありますし、今でもそうです。

現代の、日本のカトリシズムと、伝統宗教観の折り合わせ、また立ち現れる新興宗教の背後。日本の私における霊性とは何か、ということです。



それにしても、なぜ学会さんは、そこまでして信心を迫るのだろうか。

「君に本当の幸せを掴んで欲しい」「一緒に幸せにならなかったら無意味だよ」的なことを言われるのは予想できるのだが、「学会の信心」にそこまでしてこだわらなければいけない理由がやはりあるのだろう。

ほかので幸せになるのもいいけれども、「この信心」をぜひともして欲しいのはどういうことだろうか。

押しつけのような、押しつけでないような、「信心のセールス」のような上手い折伏だなあと感じたし、本物の商品の売り付けにも使えるんでないかと思った。失礼な話、そういう次元の話にしか思えなかった。

やはり、結局は、目的は「この信心をさせること」なのだ。



あらためて、「信じる心」を持ちたいというのはありますし、「南無妙法蓮華経」のパワーにあずかりたい、その分には大丈夫だったりします。

私は、カトリックで暇さえあれば教会に行き十字を切りますが、神社だって参拝しますし、坐禅だって組みます。般若心経だって唱える。生長の家の「神相観」だってする。祈りがなければ、本当に私は生きているとはいえない。自分の根源と丁寧に関わる作業だ。

それぞれの祈りのスタイルは、方向性の違いもあるものの違った良さがあります。互いに互いは排斥しあうものではない、というのが私個人の感覚です。



「もうひとつ窓をあけるのもいいですよ。つながっている根本は一緒ですから」ということで、私は「いいですよ」と。「ありがとう、これからよろしくね。」皆さんとかたい握手。アレレのれ、で携帯型御本尊をいただく流れに。



そこで、思ったけれど言えなかったのが、「それからどうなるの?」。

用紙を書いたり、みんなに拍手されることがあるらしい。急にどぎつく不安になってきた。それってまさか、どういうこと?個人として「南無妙法蓮華経」を唱えるだけじゃないよね。「学会員」として仲間とともに歩んでいくということ?

それで、今、猛烈に引き返したい気持ちに駆られている。



結局は、目的はその宗教のためみたいな、「きれい事に包まれたエゴイズム」みたいなものが集団的に、特に多くの強力な新興宗教にはあるんではないだろうか。もちろん多かれ少なかれ、伝統宗教や政治、国家の枠にも当てはまるだろうが。

自分のエゴを、信じる団体や教義の正当性に預けてしまったんでないだろうかとすら思える。

そういう団体に深く信じている人に、聖人のような心の清らかな人はいない。謙虚さもない。見えたとしても、それは作りものである。自分自身と向き合ってしまうことをやめて、自分自身で負うべき醜さの昇華を教団に預けてしまったのではないか。

自分の信じているものが少しでも批判されるのを見るやいなや、劇昂する。その批判が正当なものであればあるほど。心に捉われがあるのだ。



どうしても譲れないという部分が、「信仰は、完全な自由に依らなければ無意味」ということ。

とらわれのなさ、というのが信仰の本質といっても良いかもしれない。

宗教団体で信仰を持つ場合、どうしてもその団体のドグマに合わせた信仰や心の在り方が、外部の干渉によって規定されてしまうということ。違和感を持ちながらもそれが正当化されていき、抜け出る道が閉ざされてしまうということ。



ネットなどつぶさに調べたし、本も学会側、アンチ側双方読んだ。

「学会の人」になるのは、嫌だ。教会の人間関係を壊すかもしれない。世間やアンチから、それだけで白い目で見られるのはもちろんあるし、学会員さん達とのあたたかい交わりだからこそ、自分を絡め取ってマインドコントロールさせていくだろうというのはある。学会に飛び込んで、傷つかないわけがない。

今まで、暴力的な嫌がらせなどを学会員にされたことはないのだが、本当に書籍でやネットを見る限りでは反対者に対してはあったという話を目にする。



心の側、信仰の側では、「出入り自由」とは銘打っているが、きれいさっぱりやめることはできないだろう。幸福の科学の時のように、大葛藤を起こして、団体や信者達と激しい論戦を繰り広げて、傷ついたり傷つけあったりしないか。おそらく必ずするだろう。幸福の科学以上かもしれない。

私の入会(三帰)時も、「やめたくなったらいつでもやめてくれていいから」と言われたが、物事はそうはすんなりいかない。情けない言葉で言えば、「未練」があったのだろう。会員に見下すような目つきをされたり、どん底にいたときに会員に仏法真理の言葉で心をえぐられるような思いをした恨みを面と向かって果したかった思いは確かにある。幸福の科学の「悪事」を知りながら、それを正しいと思って信じる側について平気で傍若無人な顔で活動している人たちが、負けたときなど、正直「ざまあみろ!」と思ったりした。

そういう、宗教VSアンチの勢力図になってしまって、それに加担しているあたりが自分でも未熟だなあと思うのですが・・・。

その際の気づきというのも学びというのもやはりあるのだが、わざわざ回り道としってそれをする必要もない。

幸福の科学のアンチになって良かったと思うのが、種村修さんや、きょう子さんと実際に会えて、幸福の科学の信仰や教えが見失っていた、宗教にとって大切なものを気がつかせてくれたということだ。新しい気の合う人間関係も増えた。

引力から脱出できたらいいのですが、怖いもの見たさで、危うきに飛び込んでいった君子でない自分のとらわれというのはさすがにあるのは否定できないです。



傷ついても、真相を見極めるため怖いものの中に飛び込んでいくべきか。日常では体験できないことが起こるだろう。必ずドラマが生まれる。でも、自分の精神性は確実に回り道をする。得たものなど、失敗と傷だけ。学ぶだけなら、本を読んで意見を戦わせて判断させた方がはるかに効率は良い。

ここは、君子になって幸福の科学の二の足を踏まないためにも、危うきに近寄らず、ドタキャンして断って、自分の道をしっかり進んでいくべきか。



普通に考えて後者だよね・・・。

食わず嫌いせずに、主張を正しく汲み取り対話を深めていくのは本当に大切なことなのですが、深入りして、自分がそれにコミットメントして信心する必要性は全くない。



決まり。

私の優柔不断な性格を変える宿命転換!
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2012.09.03 Mon l 未分類 l COM(1) TB(0) l top ▲
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