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晩に、隣の学会員の方から、
「飯食わない?おごるよ」と電話。
自分は、「ああ、本当ですか?ありがとうございます。ごちそうさまになります。」
そのあと、
「この後時間ない?学会の小さな集まりがあるんだ。是非参加して一緒にお題目あげて欲しいな。」
「ああ、そういうことだろうと思いましたよ。30分程度ならオッケーです。集団で囲みこまれて入会を迫られない限りは大丈夫ですよ」
「・・・そういうことは、ないと思うよ」

実際には、「信仰はやってみないとわからない」という別の形で、2時間くらい説得されました。





まずは、それぞれの信仰体験の告白。
私だけ、非学会員。

私は、今の社会には欠けている「心」や「絆」といった大切なものが皆さんの中にはありますね、と高く評価しました。
そして、私の考えも述べました。

創価学会の魅力に
・都会のような中での地域の心ある家族のような集まり
・「お題目」と「ご本尊」による信心のすごさ
・そして、「偉大な師匠」池田大作氏の存在
があるのだなと思いました。

そのあと、
「南無妙法蓮華経」の意味や「ご本尊」の説明をうける。

大宇宙の生命と同じ本質が、人間の中にも宿っているということ。
それを引き出すのがお題目。

ご本尊はたしかにただの紙。
だけれども、千円札、一万円札なんかよりも比べ物にならないほど無限の価値を秘めた紙であり、神なんだよ。
それに価値を見出すんだ。

この信仰、信心しかないんだよ

「南無」とは「帰依」すること。
だから、何十分か、お題目を唱えた君も実はすでに、その生命に帰依しているんだよ。
「え?そんなの聞いてないし」

君は24だろ。人間の性格は25で決まってしまうんだ。
だから、この一年、本気で信仰をやって欲しいんだ。それしかないんだ。
信仰は、本気でやるしかない。やるかやらないか。

ご本尊もらうしかないね。

いつのまにか、「偽りのジレンマ」の道が出来あがっていました。

クリティカル・シンキング分野で
「偽りのジレンマ」とか「誤った二分法」と呼ばれる
誤謬論法というか間違った思考パターンがあることは多くの人がご存知だろう。
これは本来、多様な選択肢がありうるはずの複雑な問題について
(大抵の場合極端な)2つの選択肢しかないように論じて選択を迫る論法である。
カルト宗教が「自分達の教えを聞いて救われるか、教えを聞かずに地獄に落ちるか」と
迫るのもこの偽りのジレンマを利用している。
例えば、布教の際にターゲットとなった人物が
自分の将来に希望を持てていなかったり、
社会の堕落に不快感を持っていたりすると、
「現状を肯定するのか、それとも自分達の教団とともに運命や社会を変革するのか?」と
2つの選択肢しかないように偽り、
片方(現状肯定)はもともとネガティブな選択肢なので、
残りの方を選ばせるなんていうのが典型である。

私は、言い逃れにならない言い逃れをして、「眠たいので帰らせてもらっていいですか。本当にすみません」とその場を解散させてしまいました。

まあ、いわゆる「折伏」というやつですね。

やっぱり、彼らが本気で、隠しごともないのは分かる。
そして、みんなで幸せになって欲しい、信心のすごさを体験して欲しいのは分かるけれども、
自分の意志でないのに持って行かれる、というところに違和感を感じた。

知識のない、普通の人であれば、切り抜けられなかったでしょう。

新興宗教にはかかわらないのが一番ですが、
もし関わらねばならなくなった場合にはしっかりと、その宗教の事前情報と、マインドコントロールについての知識を持っておくこと。
そして、映像にもあるように、「ごめんなさい」と言ってでもいいから逃げること。

現代日本人と、新興宗教の関係については、主観と客観の間で、もっと考察したいところです。



そのあと、
「一緒に毎日勤行あげてくれるよね」

とか言われて、
数珠と勤行要点と飴ちゃんをプレゼントされました・・・。

いつの間にか、
次々と学会の信仰への道を引かれ、取り込まれているようで不安…いや、怖いのですが。

学会員さんはいい方が多いんですけれどね…。


ただ、この事例から「人間の信仰」について何か思ったことは、
私たちの心は「自由」でないと意味がないし、
自由であるからこそ、信じるということも可能になるのではないかと思う次第です。
自由な信仰だからこそ価値があるんだろうと思いましたね。
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2011.12.20 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

多くの人が、「う~ん」と印象を抱くであろう巨大宗教組織、創価学会。

私も、本やネットで情報は調べたけれども、その実情というものを知らない。



一方、私は、カトリック信徒なので、ネットなどでは、少しでも他宗教の儀礼に参加したことを書いただけで、「異端」だの「リベラル」だの「偶像崇拝」だのとののしられる。

(実際の教会の仲間たちは、「ネットなんか無視するのが一番!」と私にたしなめてきますね。)



そして、私自身も、「幸福の科学」の会員籍を持ち、内部事情など詳しい。



誰が何と言おうと、納得しない限り、こういう新宗教取材(?)は堂々と続けます。



が、

話したいことは後に回し・・・



となりの創価学会員の方に勧誘され、私が行ったのは、

松下幸之助氏と、池田大作氏の20年もの友好関係を作ったとされる、パナソニック終身客員木野親之氏(85歳)の講演でした。



彼の「信心」と、松下先生と「池田先生」のすごさに関する告白のようなものでした。

本当かどうかは、読者諸賢に任せます。



宇宙根本の原則に沿った経営。

無限の未来の原野を開拓していく。

宇宙根源の法則に自分が乗った時に人は強くなれるということ。

それに乗るために、「素直な心」「手を合わせる心」が必要だと。




松下氏と池田氏の理念は一致していったようだ。




妻に、「この信心しかありません」といわれたのが、木野氏の学会入会動機だったそうだ。

池田氏の言葉から、松下の経営の流れを作っていった。

そして、会社のポストの人、運転手にも信心を進めていったそうである。




しかし、その「正しい信仰」を妨げる働きが出てくる。

労働組合や幹部で大問題になったそうである。

「PHPは創価になったのか」、と。

周りは、アンチ学会ばかり。

しかし、これから本当の信心が試される、と。

「南無妙法蓮華経」を唱えると、生命の底から勇気が出てくる。最初から信心をやり直そうと思ったそうである。




そんなとき、大阪にいる松下さんからわざわざ「池田先生にお会いしたい。案内してくれ」

大石寺で、池田と松下の対談が実現したのである。

全員が学会に入会。(場内拍手)

売上げも45度に上がり、みなさんの使っているファクシミリも日本一、世界一になった。




ご本尊、祈りの力を実感した。




木野氏は、一度急性心筋梗塞で倒れ救急車で運ばれたが、池田先生からネクタイの贈り物をいただき、「これからもますます活躍して欲しい」と。

学会の集まりに老齢ということでさぼっていかなかったら間違いなく死んでいた。

そのおかげで現在も元気にやって、生命哲学の講演をしている。




題目が宇宙根源の法則。成功との歯車。一緒に「南無妙法蓮華経」を。




松下氏は、日本に創価学会がある限り安全だ。池田先生を中心に世界はまるくなる。35年前から先生の偉大さを命をもって知っていた。




そんな松下氏も病に倒れたが、南無妙法蓮華経の題目をあげて背中をさすると、硬直していた身体が元に戻ったという。




池田氏に松下幸之助は、「真の礼」をした。真の礼をしたのは、このときがはじめてだったという。

松下はこういった、「池田先生のことを『お父様』と呼ばせてください」。

池田氏はこう返す「いえ、私こそ松下先生のことを『お父様』と・・・」

いっこうに埒があかないので、

二本指を出して「二人のお父さん」。これでどうでしょうか。

松下氏は膝を叩いて、「それはいいですね」。




最後に、木野氏は、信心は本当にすごいと語る。宇宙根源の本質と一体化した大いなる自己に目覚める。

誰にでも世界一になれる能力をどこかでもっている。信心をした人だけ、それが分かる、と。

そうして功徳が受けられ、創価学会が大発展した、と。





現世利益、現実の変革を相当大事にする宗教団体であるとその後の歓談でお聞きしました。

また、妥協しない姿勢。

そして、「お題目」を唱えると宇宙の法則からの力が引き出されるということ。信心のすごさ。

池田氏というカリスマ的指導者の存在。

これらが、世の中に罵られながらも、人々を惹きつけてきた要因なのかとおもいました。



いろいろなことを、畳の上で交えてお聞きしました。

新宗教辞典にもありましたが、近年は「折伏」という形での信者勧誘はしないようですが、日蓮大上人の根本、「法華経」のお題目が一番大切なことは変わらないと。

というか、こちらもかなりしゃべりました(笑)



私も、「幸福の科学」の雑誌「Liberty」も持って来て見せたり、「何でもアリ」という雰囲気にしてしまいました。



幸福の科学にも、「発展」の教えがあり、現実に経済を発展させる法を説いていて、教祖の大川隆法氏も、たんまり稼いで、先日の講演会でも右腕の豪華な腕輪を見せていました。

何万円やらの「祈願」も乱発し、それも含めて、教団の利益としてやっているようです。



この宗教も、「この世とあの世を貫く幸福」を目的に掲げているわけですから、当然、心の教えだけでなく、なんと経済や経営の教えも研修にあるわけです。

こういった宗教の形に私は驚きました。




一方では、私たちカトリックは一切「現世利益」を求める宗教とは一線を画しています。

黙想的、内に向かう姿勢といいますか、哲学的になったり、こう、全人格的なものや、自分の中心、神との対話といった方向に向かっている信仰です。

福音書などにキリストが信仰による病気治しなどの奇跡を行ったことなどは記されているようですが、それも神学者たちは「現世利益」とは捉えていないようです。



普通の人が、「ミサ」に行っても、何のために何を求めて何をやっているのかさっぱりわからないことでしょう。



現代日本の求める「信仰」とキリスト教の「信仰」にはなにかずれがあるようです。



「いやぁ、私の中心にはやっぱりイエス様がいらっしゃいますから」と、言っておきましたが、

ある人は、「ぶっちゃけ、結論から言うと、君のような純粋な人には、頭や研究だけでなくて、お題目のすごさを体験して欲しいんだ。実行して欲しいんだ」と。



私の生まれはもともと日蓮宗なので、「なむみょうほうれんげきょう」を唱えることには特に違和感はありませんでしたので、あっさり「ではやってみましょうか」。

創価学会では、「なんみょうほうれんげきょう」みたいです。




さて、伝統宗教と、新宗教の問題について思うことが多くあります。



新宗教の問題について、伝統宗教は何も考えていないし、聖職者
さんたちに相談の「そ」の字もできなかった、というのが私の葛藤でした。

神学や聖書についてはエキスパートでも、現代の日本の諸宗教の状況には全く無知な聖職者が多いことに一抹の不安を覚えます。

私は、「幸福の科学」から距離を取りたかった、そのおかしさを相談したかったのですが、彼らは、私のいた「幸福の科学」の教祖や、教義についてもほとんど名前すらちょっとしか出てこないわけです。

そんな私が、なんら信仰を批判されずに、小学生相手に、教会学校で「聖書」や「イエス様」の授業をするわけですから、伝統宗教は、ある意味ゆるいといえばゆるい。

リーダーの友人と信仰の「わかちあい」すらもできたことがない。

ある意味、「子どもと楽しむ」のが主眼だったような気もしました。




一方、聖職者でなく、一部の一般信徒は、ネット上ではいたずらに他の宗
教を忌み嫌い排除する態度をとります。

私など、「幸福の科学と信仰を掛け持ちされている。教会学校のリーダーを辞めるべきだ」などと言ってきたりもしました。しかし、そういった態度は絶対にいけない。

知ってから、しっ
かり批判すべしだと強く思います。



何も知らずに、宗教叩き、排除をしている人たちの方が、

自分たちの
教団や、マスコミに揃いも揃って洗脳されている気がしてならない
・・・というかそういう確信にまで至っています。

第二、第三のオウ
ムは形を変えてまだまだ来るでしょう。




伝統宗教は、現代のニーズにあった倫理を示すことができていない
と痛感するばかり。

だからそれを補完する形で、人々の「心のスキ
マ埋めます」と、新興宗教が次々と宗教市場のニーズになっていく

まずは、自分たちのお寺や教会の意義をしっかりと再確認して手を
合わせる心を忘れずに。




エキュメニズムだとかは言いつつも、日本の新宗教情勢に無関心で


「神はキリストだけ」で、一方的に排除し、病んだこの国をどう
にかしようとしないキリスト者どもに私は怒りすら覚えています。



対話や宥和をはかろうとすれば、「異端」「リベラル」「ニューエ
イジ」と叩かれ、取り囲むように、『聖書』に戻るように進めてく
る頭でっかちだけのクリスチャンども。

現実に苦しんでいる人に救
いの手を差し伸べるより前に、神学議論。

新宗教よりもカルト性が
高い。

「神を殺した」のはあなたがただ!と言いたい。

しかし、ただ自分は、誰に何と言われようと、自分の良心に従
って一生を生きます。動きます。




と、まあ

それだけ文句を垂れたから「こそ」、

自分は、「キリスト」に戻っ
て生きていこうと思っている次第です。

新宗教との対話、研究、取材、堂々と続けます。
人々が平和に、幸せに暮らせる道を作っていきます。




自分の道は自
分で創れ!




もう一度、何度でも言います。




「組織、思想ではなく、人だ」と。


2011.12.20 Tue l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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