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法友のなかには
本当に純粋に他人のことを考えてくれる人たちばかりで…

そりゃあ、「信仰」の度合いにしてみたっていろんな人がいるわけだけれど

基本みんないい人たちなんだ…

僕は彼らの心意気を、純粋さを痛いほど知っている。

世間からは「新興宗教だ」と言われ、ある程度の偏見で見られることも分かっている。
だけれど彼らは強く強く信じている。
自分の宗教は決しておかしいものではないと。
この宗教に出会って得たかけがえのない幸福がある。
これは何にもまして尊いものだ。
この法が悩める人々を救い、世界を変えると確信しているのだ。
それに比べたら、無知から生まれる批判なんて…。
だから勇気を持って伝道行為に励むのだ。

本当に嫌で仕方ない、自分の信仰に凝り固まった連中が一部…
だけれど、彼らも思いやりのある人間であるという事実…!


俺はそんな奴らを棄てるのだ!
あの互いが互いを愛し合う暖かい場所を!
愛すべき彼らを!

ただその宗教になじまない、宗教であるから、という理由で!

俺は一体何を信じればよいのだ!?

俺はなんという悪人なのだろう!?

僕は自分の考えに凝り固まっている!

そしてどちら側の人間にも自分の考えに干渉されたくない。


はじめは純粋な愛し合う空間が
イデオロギーを守るための吐き気のするようなものに作られてゆく。


もう人の愛や思いやりなんて信じたくない
信じたい…
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2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲

結局、そのメーリスは僕のせいで停止することになってしまったのです。

なんだか訳が分からなかった。


とにかく僕は会の、
まずは信者獲得、伝道、とにかく教祖様万歳などといったドグマティックな信仰に合わせることが出来なくなったのです。

そして、心を開くことができなくなった。

一番信頼していた会の信仰を持った人たちなのに…

次第にあれほど情熱を注いでいた会に対して擦れた目で見るようになってきたのです。

信頼していたものに裏切られた。

心の拠り所も曖昧なものになった。

何を信じてよいのか分からなくなってしまったのです。

そして、僕は今までの「信仰」といえるものを失いました。

しかし脳裏にはやはり、霊界の価値観、主の下生…
そういったものが消え去ることはなく
時折それは僕を迷わせました。


自分が悪いのか?
自分はひょっとしたら悪魔なのか?

自分は裁かれるのか?

三宝帰依の体制に従えず、そしてそれに反対する自分は仏に逆らうことになるのか?

…でも、やはり納得できないものは納得できない…


怖かったです。

できるだけ、会のことを忘れようとしました。


「自分を責めないで」と言われる方もいらっしゃるかもしれません。

…だけどそれは何か「会の絶対的な正しさ」を前提としたうえでの救済の試みのように思えたのです。

…僕は
会がどうしても好きになれません。

いや、本当は大好きです。
会に集まる人たちの輝き、親切、笑顔
心から愛しています。

ですが、会が素晴らしいと思うと
また同時に人を縛りつけることなどの過ちも見え、素直に支持することができないのです。


…もし、「人探」での宗教の話、メーリスでの事件がなく
私が会で何事もなく幸せを作っていけたらどうなっていたのだろうかと時々思います。

ひょっとしたら会員として学生部に入り浸り伝道に励んでいたのでしょうか。


しかし、もしそうだったとしても、その可能性はあったかと言われるとどうかとも思います。

きっと僕は心のなかに葛藤を抱え続けながら会に従っていたでしょう。



しかし、このつまづきは大変尊いものであったと思っています。

本当の自分に向き合うことができた。
自分の頭で徹底的に考えさせられたのですから。



私の中の大きなものが
、仏陀と教団への信頼があっけなく遠ざかっていきました。


きっと会は
「信じろ」と必死に説得してくるでしょう。
「もったいない」とか「誤解だ」「そこで信仰が試されていたのだ」という風に。

彼らはあれこれと手を変え品を変え、言葉を使ってくる。

でも僕はそのような態度が
とても恐ろしいものに思えるのです。

彼らがいちばん大切にしたいのは一人の人間としての人の心じゃない。

いや、確かに人の心を大切にする
しかしそれ以上に、自分たちの属している団体とその教義がいかにすごいかを認めたい、
結局はそれに尽きるのだ。

ひょっとしたら
このような心理は何かの集団に属しているならば誰しも少なからずあるものだとは思います。

大切なのは、それを消そうとすることではなく、正面から向き合い認めることではないでしょうか。


会の教えは確かに人を幸福にしうる素晴らしいものであると思います。

だけど、根本にそのような「エゴイズムの摩り替え」が生じているのではないでしょうか。

すなわち、「自分だけがよかれ」というエゴの気持ちを捨てたつもりが本当は
「自分の属している教団がよかれ」という気持ちに移行しただけなのかもしれません。


《あぁ、ここの教団もその本質はやっぱり「人探」で先生の言ってた通りの宗教なのかな》


人生に苦しみが多ければ多いほど私たちは人生の指針を探し求めます。
そして深く深く、その教えを説く教団に従うようになります。

そして、「ここの教えこそ最高」と頭が信じこんで固まってしまい、他の人の考えをみんなつまらないものとみなすようになります。

自分だけは正しいと堅くなに信じて固まってしまっているようです。


実際に会の教えはとてもポジティブなもので、私たちの普通の毎日の生活では決して得られないものがあることは確かですが。

「仏教の寛容の精神があります」というのも
「うちの宗教は寛容ですから正しいですよ」というある種の自己叙述的な免罪符になっているように思えます。



僕は自分の頭で考えることをしました。

だけど、信じるものがないという不安は時折僕を不安に陥れます。

信仰とはそれまで三次元の暗闇を照らす光であったのですから。

「伝道」なんてもはや頭の中にありません。

自分のなかにある、「エゴの摩り替え」にも気が付いていたからです。

「他人にこの教えに出会って幸福になって欲しい」という気持ち
確かに強くあります。

だけど同時に、自分たちの宗教の力を示したいという、
どこかで自分たちに帰結する部分もあるのです。




時は大学受験を控えた一年でした。

夜回り先生、尾崎豊、それに漫画の「あしたのジョー」といった生き方に憧れました。

生きる指針は何も宗教だけではありません。

受験の重圧のなかしっかりと生き、考え、様々な糧を得ようとあがいて来ました。

もがき、求め続けてきたのは会での学習同様でした。


信仰し崇拝し仕えるべき宗教は失いました。

けれども、「人探」での学び、体育祭、「便所掃除」などといったことを通して
僕の学校の最後の一年の生活のなかで僕の内面を見つめることが、僕のなかに確かな「宗教性」を育んでいったのです。

それは、会での「成功哲学」的、「道徳論」的な宗教性よりも
はるかに深くて、確かなものでした。
2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
僕も僕で悩みごとはたくさんあります。
毎日が本当に辛くて
それでもポジティブに考えようと頑張っていました。

でも限界がきました。
いちばん精神的に酷かったときです。
高校二年の冬のことでした。

僕は校誌になんと40ページにも渡る漫画を載せることになり、〆切を間に合わせるため、
新学期早々3日連続で学校に行く振りをして、途中の駅で降り、喫茶店や図書館の机で漫画を描いていたのです。
夜も睡眠3時間で頑張りました。

そんなある夜のこと、部屋のドアを凄い勢いで「開けろ!」とバンバン叩かれながら
親に怒鳴り散らされました。
学校を休んでいたことがバレたのです。

朝になって学校に行くときの車の中で
「お前誰のおかげで食わしてもらっとるとおもってんのや」「学校やめたら」
さんざん叩かれました。
そして最後に「あんた何か死ねばいいのよ」「生まなきゃよかった」
もう…
気が狂いそうでした。

なんとか漫画は〆切に間に合わせたものの
自分の納得いくものでもなく、ただ深い心の傷が残りました。

報酬の500円の図書券だけが残りました。

憧れの先輩みたいに校誌に何か載せたいと思ったのに…
一体なんだったんだろう。

虚しさだけが残りました。

そんなある日の「お前友達いねえじゃん」の一言で、何かが崩れました。

次の日、以前と同じように学校に行くのを止めて、図書館に行きました。
そしてジョンレノンのビデオや、「あしたのジョー」のビデオを見て過ごしました。

本当に限界で、何もする気も起こらない。
生きる意味も見つからない。
誰も助けてくれない。

西山明の「アダルトチルドレン」という本を見つけました。

「あぁ、自分ACだな」って思った。

言葉なんてどうでもよかった。
ただ助けて欲しかった、楽になりたかった。

辛くて「自分ACです」みたいな内容のことを会の学生部メーリスで回した。
一通だけ暖かいメッセージが届いた。
だけどそれ以外は無反応で、数日すれば「伝道成功しました」メールが何事もなかったかのように流れていく。


久しぶりに学校に行った。
その時人探の先生にも
「先生、自分ACかもしれないっす…」と言ってみた
だけど先生は
「お前の家親父がアルコール依存とかか?
ACってのはそういうことだ。
よくいるんだ。自分の過去を振り返って『自分ACです』なんてヤツが。
だけど、人間は機械じゃない。
『こうしたらこうなる』って決まっているもんじゃないんだ。」

話はなんとなく分かったが、自分が今抱えているこの辛さだけはどうにもならなかった。


また、会のある先輩ともメールでやり取りをした
「親と上手く行ってなくて…」
すると
「素直に親に感謝してみ、そして自分の悪いところを仏に詫びてみろ」と。
《…この人、自分のこと見ているのかな》

自分が哲学に興味があるといえば、
馬鹿にしたように「俺は仏法真理を学んで人生の疑問の9割がたは分かったと思っている。哲学なんて人生の悩みを深めるだけだと思うね」と。
「哲学とはそんなもんじゃない」と反論すれば
「お前先輩に向かって失礼じゃないのか」と。



なんだか次第に会に対して持っていた憧れや期待が音もなく薄れていくのを感じた。


信仰のやり場も見失った。
情熱のやり場は見つからない。



決定的な事件が起こる。

あの傷も癒えてきたところ、
学校に「夜回り先生」水谷修氏がやってきた。

先生の講演、質疑応答のなかから僕の人生観は大きく変わった。

「こんな大人、こんな教師もいるんだ」と。
この人なら信用できる。

僕は質問した
「先生、自分のメル友がリストカットで苦しんでいます。どうすればいいですか。」

先生はこう答えた
「『俺が助けてやろう』なんて思わないこと。
すぐに、僕のところに連絡するか、周りの大人の助けを借りること。」

水谷先生からは、本当に明るい明日を作る力をもらった気がした。


会の学生部のメーリスで、水谷先生のこと、そしてリストカットで苦しむメル友のことも流した。

…ところが流した内容がまずかった。

会から家に電話がかかってきた。

親は怒った。

電話で職員さんが言う
「あれは駄目だよ。考えたら分かる。考えたら分かるからね。」

《……》


《内容がいけなかった…それだけかよ!?
確かにあれはまずかったかもしれない…

なにしろ、自分宛てに書かれたプライベートな手紙、それに内容が性的なものであったからだ・・・。

でも、ぼくは、あれが間違っているとは思っていなかった。

・・・だって、これが真実なんだよ!!現実なんだ!!

世の中は、あんたらの宗教の描くみたいに、そこまできれいな世界じゃない!
こんな世界だってあるんだ!

あんたらはそんな世界の現実に目をそらさず見ているのかよ!?》

でも、それを一方的に「それはいけないよ。考えたら分かるからね」で、切られた。


《俺たちの苦しみ、俺たちの訴えはどうなるんだ?
所詮この会も、人の心なんて二の次、体面を保つことが一番なんだな…

何が「全人類救済」だ?
会が正しいことを証明したいだけの内輪の綺麗事じゃないか》

わずかでも信じようとしていたのに…

「悩みがあったら言ってごらん。聞くよ。」
「…やる気が出なくて勉強がどうしても出来ないんですけれど…」

「それは甘えだよ。うん甘えだよ。」

《なんで甘えだってこちらの話を聞かずに一方的にそう決めつけるんだ?
こっちの家の事情とかさ…突っ込んで聞いて欲しかったのに
何が職員だ…ダメ教師と変わらないじゃないか》


すべてが金メッキでコーティングされた嘘のように思えた。

ここで、僕の会に対する信用、信頼、信仰は音を立てて切れてしまいました。


でも、僕のなかにある「宗教性」は確かに死んではいなかったのです。
2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
僕の宗教にかける情熱はより熱く、そして理知的さを備えました。

僕はなお会、そして学生部を愛していました。

仲間たちと日本の将来や夢、希望などを語り合いたかった。

メーリングリストで
よく、学習の仕方や、考え、思ったことを発信していました。

法友のなかには未だにそのメールが印象に残っているといってくれる人もいたりします。


でも少し寂しかったことがあります。

流れてくる「イイシラセ」が
「伝道成功しました」ということばかり。

合宿前には
「〇〇地区から何人来ることが確定しました!」

数を増やすのが目的なの?

その「数増やし」によって僕も尊い出会いを得たのだけれども…

素直にバンザイ出来なかった。


僕は心の交流がしたかった。

こんなの結局「教団がすべて、教祖が目的」の宗教じゃないか…

…違うよね。
信じたい。

次第にこの宗教が訳が分からなくなってきました。

《僕の求めているものはこんなことじゃない…!
僕は本気で人生を語り合える友人が欲しいんだ》

…そんな「本気で人生を語り合える友人」は今に至るまでまだいません。
2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
「人探」の先生の口から出た言葉とは
次のようなことでした。

僕は「分かってくれるだろう。認めてくれるだろう」と期待していました。

ですが、
「あんまりハマりすぎないほうがいいよ」
と。

ドキリとしました。

《まさか、認めてくれていないのか…
なぜ?すごくいい教えじゃないか。なんで分からないんだろう…。
それに会は決しておかしい宗教じゃない》


さらに続けて
「あのね、宗教の恐ろしさは周りがやめとけって言っても本人は完全にいいと思い込んでしまっているから危ないんだ」

《他のカルトはどうか知らないけれどウチの宗教は違う…多分。一緒にしないで~。》

「みんな教祖が『あっちむけ』って言ったら揃って同じ方向向くだろ。
キリスト教だと違うよ。確かに教皇は尊敬しているが、教皇が『あっちむけ』って言ってもみんなそれぞれ違う方向向くんだ。」

《う~ん、確かに…それはあるかも。
でもウチの教祖は「仏陀」「救世主」だからなぁ。
キリスト教徒がイエスに対して信仰を持つのと基本変わらないスタンスなんだが…どうなんだろう…》

「それに宗教を信じるきっかけが『病気が治った』とか『家庭問題が解決した』とかそんな小さな個人的なことで『一生ついていきます!』じゃん。
倫理的な「奪うのを止めて与えましょう」みたいなのはどこの宗教でも似たようなもの。
例えば現実に起こっているイラクやパレスチナとかいう世界の問題に対してどういうスタンスで考えているかといえば適当な綺麗事でしょ」

《確かに、ウチの宗教にはそういう病気や家庭の問題を持った人も多いし、月刊誌でも体験はもっぱら『信仰によって病気や家庭問題が治り真実の人生を歩みはじめました』というのが多い
だからといって世界の問題に目を向けていない訳では…そういう話題はないね、確かに。
だけど、総裁先生が悠久の昔より人類を導いてこられた主であり、様々な文明に現れた宗教の開祖もみんな同じ光の如来なんだよ、ということを認識すれば世界は一つになるとも教えられている。
でも確かに世界の問題に目を向ける大きな視点がないのは事実だ。》

「信仰宗教の多くは自分で考えさせない。
その宗教にとって都合の悪いことはみんな見せない。
キリスト教では聖書というのは常に批判的な分析が行われていて、その上で聖書の本当に言いたかったことを見出す姿勢を取っている」

《これはひょっとしたら大いに当てはまるかもしれない。会は正反対の態度を取っている。
会の根本書籍は旧版と新版でかなり都合よく書き換えられているし、
元職員の批判の本は『事実無根の誹謗中傷』として絶対に手に取ったり読んではいけないことになっている…

だけどこれらはみんな真理の光を守るための戦いだったのだ…》

「そして結局は教祖と教団がすべて、あとは金だよ。
マザーテレサにとってキリスト教とかそういうことは関係なく活動をした。
自分も共産党の考え方には割合賛成するんだよ。
だけど、根底にやらしい部分がある。
宗教があって人があるんじゃない。宗教のための人じゃないんだ。
目的は人なんだ。」

《う~ん、確かに仏陀と僧団は尊いもので大切にしなきゃいけないのだけれど。
どこかで教祖に帰結しちゃっている部分があるかも。
金…確かに会の用具や一部の研修、祈願はたくさん取るけど、それは強制でなく任意だし、金を大っぴらに要求するような宗教でない…という印象なのだが
あと、会では金は必ずしも汚いものではない「愛の経済学」みたいなことも言われてるしなぁ
人のための宗教…これは心に留めておこう》

「自分の属している宗教に対していろいろと批判的であれるというのが自分の宗教に対する誇りでもあるし
またそうやって常に批判に晒されつつ残った宗教だからこそ世界宗教として現在ある。
批判といっても批判のための批判じゃなくて、よりよいものを作りあげていくための吟味なんだ。」


といったことで一時間ほど延々と新興宗教と世界宗教というものについて語っていただきました。


最初はハンマーで殴られたような衝撃で
頭が真っ白でしたが、
聞いているうちに
「ああなるほど
そう言われてみればウチの宗教はそういうところに考えが至っていないかもしれないな」
と頷きました。


この点は会に問題提起をする必要があると感じました。


この話を聞いて、
僕の会に対するスタンスは少し一歩離れた視点からとなりました。

会の見方と
キリスト教の見方ではずいぶん視点が違うんだなということを感じました。


会は世界宗教を標傍していました。

私もそれを信じていました。

しかし、この話からすると、分かりませんが、会は新興宗教の要素も存分に抱えたままの宗教でもあるように思えました。

僕はまだ会をよくしたいと思っていました。

もっと意識の脱却をはかって欲しいと思いました。


その頃から、メーリングリストなどを使って自分の考え方を全国の学生部の仲間に発信していくようになります。

それを通じて、実際に会った人からは「信仰心の強い人だねぇ」とよく言われました。
2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
さて、僕の通っていた高校は中高一貫のカトリックの学校でした。

いわゆる宗教色などはほとんどない学校でしたが、厳しい規律や変わった慣習などがありました。


昼休みに聖書を読む会というのもありまして、それにも中学生のはじめのころは出ていました。
二千年にも渡って残った聖書で語られていることに、哲学的な部分など違う刺激を見い出したものの
会の仏法真理を学んでいた私にとって、もっぱら興味は、聖書に登場する神が本当は何者かということなどを思ったりしていました。


また、もうひとつ集まりがあり、それが僕の人生を大きく変えたことは間違いないでしょう。

その集まりは「人生探検部」略して「人探」といいましたが、
そこでいろいろなビデオなどを題材に話し合いをしました。
これは高校生になってから参加しました。

題材はイラクの問題、日本の戦争から、「夜回り先生」や「尾崎豊」もありました。

やはり僕には、会同様に何かを追い求める姿勢があったのです。

人探の先生は、もう何十年も前の上智大学の卒業生であり、公民や倫理を担当しておられる方でした。


高校一年の頃であったと思います。

会の方から伝道、PRのための映画を上映していた時期で
同時に初めて会の全国学生部が発足し、夏に一斉に合宿をした年でもありました。

会の素晴らしさを受け入れつつも、すんなりと幸福になれないことに対して、あれこれと悩み初めていた時期に、このことは、改めて大きな感動で
「やはり会は素晴らしい。決しておかしい宗教なんかじゃない!」
と胸を張って思えるようになり、
学校でも「伝道」を初めるようになりました。

学校が宗教の学校だったので「きっと素晴らしさを分かってくれるだろう」と思って、宗教の授業の先生や、その「人探」の先生から本や映画のチケットを渡したこともありました。

「こんないい先生なんだから、ぜひ会の教えに触れて、本当のことを知っていただきたい」という気持ちだったと思います。

学生が中心となって伝道活動を広げていく「学生部」なんかでは、中心は大学生ですが、
僕は、誰に言われるでもなく、ひとりの信仰者として、ひとりの会員として、伝道活動を行っていたのです。

こんなエピソードもあります。
図書館にも会の書籍を入れるよう希望を出したところ
「新興宗教。自分で買ってください。」と返事が来て、
「これはどういうことか。新興宗教だから入れないというのは、差別じゃないのか?《書教分離》だ。それに会の誹謗中傷の本はあるのになぜ会の本はダメなのか?おかしい!」
と抗議したこともありました。


そんな風に当時は結構熱心に活動していたのです。

総裁先生の仏法真理の書籍はそれほどまでに尊く価値のあるものだったのです。

とにかく、この素晴らしい教えを読んで受け入れて欲しかった。

そんな感じで、自分のなけなしのお年玉を使って書籍を買い、人探の先生に「献本」した時の話です。

その時のショッキングな話が僕の考え方を大きく変えることになるのです。
2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
「霊界が100パーセント存在するという事実」は
いい意味でも悪い意味でも私たちの心のあり方を支配します。


私たちの人生の目的はこの世で魂の修行を積み、魂の「次元」を高めることです。


私たちは、常に「実在界」からの視点を気にして行動、心に去来する想いを確かめるようになります。

愛の発展段階説についてはすでに説明したと思いますが、
信者は、自分の愛が「与える愛」よりも「生かす愛」、それよりも「許す愛」と高まることを目指しています。

そして、おそらく同時に自分が「より高い愛を持った霊格である」と「思いたい」。


明るい心でいれば天使が共にあり
暗い心でいれば悪霊が取り付く

だから、できるだけ暗い想念を出さず、明るい想念を出していかなければならない。

そうして自分の魂の光の量が増していく。


だけど人間ってそんなに単純なものでもないんです。


すべての人に当てはまるとはいいませんが
会員さんは、どこかで暗い気持ちを出すことを恐れている。
それを我慢して、押し込めて
なんとか自分の心を明るく見せようとしている。

…会員さんに限ったことでなく、私たちもそうかもしれませんが。


とにかく、何かに追い立てられているように、何かを我慢しているのではないかと思います。

「それは違う」と反論される方もいるかもしれませんが、私は否定はしません。


とにかく僕には自分の悪を押さえ付けることはやっぱり無理でした。

常に自分の中では罪の意識と、自分の悪をぶちまけたい意識が自分を苦しめていました。

内面の世界を扱う宗教とは、他の誰かにそれを説明して救いを得にくい世界でもあります。

こうして僕はひとりで一層自分を何も見えない闇へと追い込んでいくのです。

そのうち何が問題なのかすら分からなくなってくる。

どうしてよいのか分からない。
他に信じるものが見つからない孤独
とにかく不安と息の詰まるような苦しみ
自分で作ってしまった自分の殻から抜け出せないのです。
2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
人間の中にある宗教性って決して特殊なものではないと思うよ。

例えば、自分以外の他人のために何かをするということ。
2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
否定したい自分と
肯定したい自分がいる


彼らはきっと、100パーセントの肯定をするべし、会は正しい
それが正しいことだと言うことだろう。


肯定しなければならない自分と
否定しなければならない自分
に分かれる。


ジレンマに陥った
弱く、
何も決められない自分がいることに気がつく

何も知らないくせに


そうやって
自分の置き場所を
決めなければならない
だけど決められなくて


そうやって自分を見失って弱くなっていくのだ
2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
会についての高い評価。

それは、会が密接に私たちの現代文化と融合をはかろうとしていた点にある。

宗教というものは一般に日常とはかけ離れた「聖」なるものとして私たちの日常と距離をとっていた。

ところが、会は
最先端のCGを駆使したアニメーション映画や、音楽のライブ、いろんなイベントを開いたりと違和感がない。

最近では新しく芸能人を養成する部門も出来ているみたいである。
そういったことで、「面白い人」をたくさん生み出してどんどん会をPRしようという試みだ。

そして決して、クオリティは低くない。

宗教の中で独特の美しい芸術や文化が形成されつつあるのだ。

時代に合わせた宗教であること。
これはとても大きい。

つまり、一般に対する敷居が低いのだ。

何かのキャンペーンをする際にも決して会の名前を隠さない。
堂々としている。

カルト教団に見られるような閉鎖性も比較的少ないのではないかと思う。

それが会が大きくなった一つの要因ではなかろうか。
2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
会の人のなかにはは本当に素晴らしい人たちもいる。

彼らには
きっとやましい気持ちもないし
衒いもない。

理想を純粋に求めて風のような愛として生きているのだろう。

自分がこんなつまらない理屈をあれこれと述べているのが恥ずかしくなるほど。

彼らの言葉
彼らの生き方は
私たちを明るく、前向きにしてくれる

暗い気持ちで生きていたそれまでが恥ずかしくなる。

それは認めざるをえない。

彼らの輝く姿を見ているとやはり総裁先生の理論、会は間違っていなかったのではないかと不安になる。

きっと、総裁に対する崇拝は
権威を押し付けられたものではない。

自分から、心からの感謝を捧げて、信じているのだろう。

会の理論、そして会のつながりはそこまで力のあるものなのだ。

それを知らない人間が如何に多くの言葉や理屈を並べようと決して彼らの信仰をくじくことはできないだろう。

主の光
信仰の前で
三次元、この世のつまらない理屈なんて通用するわけがないのだ。

信仰によって人は真に生かされるのだ。
信仰のもと、真の人生が始まる。

「最初は確かに疑問もあったけど
こういうことだったんだな、間違っていなかったんだなって分かった。」
…信仰とはこういうものだろう。
そしてそれが宗教の力だ。



会の信仰から距離を取っている現在
彼らの輝く姿を見るたび不安になることは確かだ。
前向きになろうと頑張っている彼らの姿をみて
自分は、何をやってきたのだろうと悔しくなる。


だけど僕は自分の頭でしっかり考えることを止めません。
2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
会では
愛を与えて行きた者は天国に行き
愛を奪って生きてきた者は地獄に行く
と教えられています。

いろいろな罪がありますが、最も重い罪は和合僧破壊の罪といいます。
…すなわち、地上にある仏陀を傷つけ、その教団を混乱に陥れようとする者は
死後、阿鼻叫喚の苦しみが何百年も続き、心からの反省をしない限り救われることはないということです。


こういうことを言われると、
普通の人に対してはとてもカルトな印象を受けるかもしれませんが、
信仰者の側にとっては、人生において最も大切な信仰というものを守ってくれるこの教えはとても力強いものに感じるのです。

すなわち、自分のすべてんかけて信じている尊いものを傷つけられることは、「魂が引き裂かれるほどの痛み」であり
信者にとって、信仰とはそこまでして強く守らなくてはならないものなのです。

このように「信仰」は時に「普通」の見方を変えてしまうものなのです。

会は最近ではそのような教えを強くは言いません。
でも確かに根っこの部分には確固として存在している教えで
それが信者の信仰を強くし、深めることにもなっています。

そして信仰を深く、強めていくことが、幸福感を強めていくことになるのです。

そして同時に、自分自身の頭でもってしっかり考えようとするとき、どこかにそのような霊的な権威による規制がかかって考えるべきことを考えることをストップさせているのは事実ではないでしょうか。

仏に逆らい、悪霊の言いなりになって、永遠の地獄から這い出ることができなくなることを想像しただけで、自分の魂がとてつもなく汚れたように思えますもの。


しかし、
迷いを持ちそうになった時は、
会で確かに感じる「光」の感覚が「この教えは正しい」という実感を持たせてくれました。

自分は、この宗教を信じていることに対して誇りを持っていました。


僕のその当時の将来の夢は会の職員でした。
主の大いなる理想のために仏の透明な手足として、この人生をかけて働いてみるのが夢だったのです。

それ以上に尊い職業はないと思っていたのです。

僕の目から見た「職員さん」はとてもカッコよかった。

本尊に向かって礼をし、経典を読誦・奉納する姿
研修などでは、たまに冗談も交えながら、仏の尊い教えを伝え、私たちの魂に深い感動と光を与えてくれました。

こんな仏にお支えできる素晴らしい仕事をぜひやりたいと思っていました。


僕は
この人生をかけて真理に生きたいと誰に口にすることもなく、内心沸々と思っていたのです。

真理によって僕は救われる

そしてそれが多くの人を幸福にすることもできる。

そう信じていました。



ここで、それまでの私の生い立ちについて簡潔に述べておきたいと思います。

小さい頃から、他人とは少しずれた子だったようです。

親はとても子どもに勉強をさせようと必死でした。

なにかあるたび親は僕を怒りました。

でもそれは、僕が親の思い通りにならなかったから、とか
単にイライラしていたからとかといった風に感じられました。

ときに優しくしてくれるときだってあった

でもどの瞬間も機嫌を損なわせて、怒られて勉強をやらされるのか、とどこかに不安があった。

何かの拍子に喚高い声で何時間も怒鳴り散らす。
そのうち何について怒ってるのかが分からなくなって
過去のことまで持ち出して人格否定の攻撃がはじめる。

どうしようもなかった。

たくさんお金をかけて良いものも提供してくれた。

そしてそれが怖かった。

周りの人は教育熱心な姿を見て
相談しても
「いいことじゃん」
「親なんてそんなもんだよ」
って言う

違うよ…

あんたらには自分がどんだけ苦しんでるか分かんないんだ


中学受験のために小学生もあまり行った覚えがない。

塾では殴る蹴るは当たり前のスパルタで徹底的に「プロの受験生」として養成された。

今では「体罰がどうのこうの」と議論されているが、
でも、塾はひとつの家族のようなもので、お互いに絆はあったし、決して理不尽なことで怒られることはなかった。
たとえば、間違えては行けない問題を間違えたとかいうことで徹底的に怒られた。
家でのような、なんとも言えない気持悪さのある叱られ方とは違った。

塾は確かに厳しかった。
多くの塾生がその厳しさに辞めていくことも多かったが、最後まで残った。
しかし、中学合格という目標のためにいろいろな物事を犠牲にして頑張ることの大切さも学んだ。

小学校でレベルの低い周りと合わせてつまらない毎日を過ごしているよりはマシだった。

でも勉強さえ出来ればそれでいいものとばかり思っていた。

「俺とおまえらは違う」と、「いじめ」までやっていた。

先生に怒られることもあった。
でも「ふざけるな」って思ってた。
俺のやってることはあたかも自分が正しいみたいに偉そうに注意するけど、それ以上のことを俺にやっている大人には何も言わねえのかよ?
もし、そういう大人が間違っていないってんなら、俺も間違ってないよ。
この世界は弱肉強食だ、勝ち組と負け組しかいないって俺に教えて勉強を強いたのは大人たちだぜ?
何もしないくせに権利ばかり主張する弱い奴が虐げられるのは当然のことだろ?

たぶん、そういう風に思ってやっていた。



でもその後立場はいつの間にか逆転する。



中学に入ってからは
いつの間にか周りのノリについていけず
同じようにはぐれた悪い奴と一緒になって授業をボイコットすることもあった。

一度そいつに放課後、断りきれずに遅くまで夜の街を連れ回されて、帰るのが遅くなってしまった。

親は怒って自分を締め出した。
自分はそのまま家出をした。
警察に捕まるまで寒いなかをほっつき歩いていた。


学校も嫌だった。
「いじめられた」とは決して思いたくないけど
今思い出しても、本当に腹の立たずにはいられない嫌がらせばかりだった。
他人に舐められるのが嫌だった。

怒りたかった。
でも自分のことで腹を立てることはいけないことだ。
でも相手は悪くないのか?
相手の悪いところを見つける自分がいけないのだ

何が正義で悪なのか
ここで何ヶ月も考えた。

だけど何も出来なかった。


自分は中学受験で誰よりも厳しい環境を経験してきたから、頭が良いものだとばかり思っていた。

でもそれは最初だけで、
みんな頭がいいんだ。
いつの間にか
順位はトップから上の下へ、中へ、下の上へと落ちていく一方だった。

中学でも高校でもたくさん勉強をやらされた。

だけどもはや中学受験のときの誇りもない。

やればやるほど成績が下がる、
親の目を盗んで勉強をサボるなと怒鳴られる。

周りには、結構生き生きといろいろなものに取り組んでいる人もいる。
自分もそれを目指して、なんとか無理矢理自分を励まそうとする。

…だけどダメなんだ
どうしてもダメだった


なんのためにこんな苦しまなきゃならないんだろ。

なんだか白いもやをかぶった嘘の生活ばかりが続く。

誰にも分かってもらえない。

仏だけは分かってくれていると信じて耐えた。

頑張って耐えた先に幸せが待っているかなぁ。
その可能性があるんなら信じて頑張ろう。

これはきっと試練なんだ。
ここで、信仰が試されているんだ。



自分が安心して存在していられるような
自分がしっかり尊重されるような
そんな場所が欲しかった。



会が一般向けに劇場公開した映画では、
様々な悩みに苦しむムーの人々に向かって、ラ・ムー大王が「神は太陽のように与えきりのものだ。あなたがたのなかにも神がやどっているのだからそのように与えきりの人生を送りなさい」という心の教えを説法し、ムー人の心に光を取り戻し彼らはお互いに愛を与え素晴らしい理想郷づくりに励むのである。


自分もそんな風に幸せを取り戻すことができるかなぁ


与えることを考えて生きたい。

自分に何か与えられるものはあるだろうか。


傷つけられるのを恐れて
会話と言えばくだらないことばかり

そんなつまらない日常の中で自分に何が出来るだろう。


僕の信仰とは一体何なのか…

自分はいつになったら幸福になれるのかな

幸せを獲るために仏法真理の書籍を片っ端からむさぼり読んだ。


いくら本を読んでも
幸せになった気はするけれど、苦しみは一向になくならない。

こういうときはこうすればいいですよ
ということは網のように体系化されて、どこかに引っかかってくれる。

それで表面だけは救われた気はする。

でも、痒いところに届かないなにかがある。
なんか
そうじゃないんだ


叫びが届かない虚しさ…


理屈だけのきれいごとじゃないか。


こんなことを心のなかで考えていたら魔が寄って来ているのか?

やだよ

好きで考えているわけじゃないのに

本当はもっとポジティブに考えていきたい

だけど思っているだけじゃどうにもなんないんだ。


暗い言葉を発しちゃいけない?

どうしろっていうんだ?

我慢するのに疲れたよ…


嫌だ

僕は裁かれるのか?


助けて
誰か助けてくれ!



主よ
私の罪をお許しください。
祈ります。
私に光をお与えください。

あなたを信じます。



助けて

本当に苦しい

誰も助けてくれない…



深い深い
誰も支えてくれない
自分でも支えてくれない
そんな闇がいつの間にか作られていた。




長くなってしまったけれども、
本当の問題は
宗教ということもあるが、
自分自身の救済にあるのかもしれません。



人はどんなに辛くても、自分は自分でしか立たせることはできません。

私の「信仰」と称して真実の生き方を求めて幸せを掴もうとする行為は本当は「依存」だったのかもしれません。

絶対的に正しい生き方というものを自分以外のものに指し示してもらおうとしていたのです。

世の中にはいろんな秩序がある。

単純に善悪は分けられない。


そのことはうすうす自分でも感じていました。

だから「自分で考える」ことに僕はこだわりました。


Mr.Childrenなどの音楽に傾倒しはじめたのもこの時です。


次第に僕は「仏法真理」の秩序から遠のいて詩やアートの世界に自分を求めたのです。


でも、それでも幸せは遠のくばかりです。
2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(1) TB(0) l top ▲

そうやって、いろんなことを考えはじめると何が正しくて何が正しくないのか分からなくなる。

同時に、今自分が抱えている悩みを解決したい気持ち

自分に相談してきてくれてる子を救いたい気持ち

どうしても大きい。


いちばん大きな力を与えてくれる可能性があるのは会だけ。


インターネットを通じていろんな意見を見る。

会に批判的な意見の人を見ると心臓がバクバクして血の気が引いたようになる。

会が正しいっていう人を見るとホッとする。

批判している人たちは本当に見方や考え方が冷たくて幸せにはなれない。

会の人たちはやっぱり暖かい。


そんな対立のさなかで
会に惹かれる想い
会を守ろうとする想いが大きくなってゆく。

「信仰が試されている」と思って
迷いながら、どうしても信仰を選びとろうとした。


会では信仰は人間にとって一番大切なものと教えている。

信仰は魂の命綱だ
信仰を捨てることは仏と自分の関係を絶ってしまうこと、魂の死だ。
苦しいと思って、手放したら最後堕ちるのは地面などではない。
永遠の闇、奈落の底が待っている。

信仰を手放す痛みくらいなら、肉体がノコギリでバラバラにされる痛みのほうがまだマシだ、と。

また、信仰は100パーセントでなければいけない。
99パーセントの信仰は信仰ではない。
地上に肉体を持った仏陀に対しては100パーセントの帰依をしなければ、ことごとく間違いの淵に投げ込まれる。



僕は会を信じたかった。

正直なことを言えば、
会に対する批判はみんななくなって欲しかった。

なぜ、みんな素直に仏法真理を信じて幸せになることが出来ないのだろう?

なんでこんなに素晴らしい教えなのにその良さが分からないのだろう?

なんでそんな屁理屈を付けて、粗を探そうと必死なのだろう?


みんなわざわざ仏陀に相まみえるために、自分から選んで高い競争率のなか地上に生まれてきたんだろ?

気付けよ!

もうこんなチャンスは幾転生しても二度と巡ってこないんだぞ。

お前達の行為は
二千年前にイエスを救世主と分からず、脇腹を槍で突いたことと同じだぞ!




それでも分からないことはたくさんあった。

必死に信じようとした。

考えた。

考えに考えた。

いろんな本も読んだ。
だけどはっきりしたことは分からない。

会が正しいのか、間違っているのか。

いろんな考え方が世間にはあるけれども、
会の考え方は他のどんな考え方よりも優れているし、真に人を幸福にする考え方だ。


東大卒で、勉強家の総裁先生は視野も広く、話すことも一般受けのよい、それでいて決してレベルの低くない意見を易しく述べる。
これらは「説法」「仏法真理」と呼ばれ、金科玉条の如く大切にされている。

たとえば、S会のIなどは、ほとんどが「ゴーストライター説」と言われているが、
それとはまったく違い、総裁先生は、原稿も持たずこんなに卓越した考え方を、しかも一度も同じ話などせず、次々と述べ、
それをもとに出版された本はすべてベストセラーになっている。
もちろん会員が一人何十冊も買って配っているのは事実だが、
実際に内容は批判のしようもない実に優れたものだろう。

はっきり言って、そこらへんの大学教授じゃいくらあがいても敵わない。
まさに一人で大きな会を立ち上げ、引っ張ってここまでの仕事ができるというのは天才に他ならない。

それほどの仕事をするにはやはりそれを裏付ける強烈な使命感があるということ以外に考えられない。

この人が嘘をついているようには想えない


この人は本物の仏陀かもしれない。
…いや、
仏陀に他ならない!

仏陀の他にこんな素晴らしい法を説かれる方がいるだろうか?


ひょっとしたら、書籍に書かれてあることはすべて正しいのではないか。

自分のこざかしい小さな頭で考えたところで一体何が分かる!?


ちっぽけな自分を捨てろ。
偉大なる仏陀の懐に飛び込んですべてを任せるのだ!

ああ
暖かい…
光に包まれている。
これが幸福か
これが信仰の素晴らしさなのか

何も分かっていない世の中の人が何と言おうと自分は仏陀を信じる。

ああ
仏陀よ
幾転生の末巡りあった魂の喜び!
永遠に私はあなたと共にいます。
師弟の絆は永遠です。


…こうして
僕は苦しみを抱えるたびに
仏の方向に心の針を向け、「信仰」を選びとろうとしたのです。
2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
インターネットというものが、私の見方、考え方に大きな影響を与えました。



世の中にはいろいろな視点があること。



簡単にはひとつにまとまらず、対立し、批判しあうということが常であるということ。



「仏法真理」、会で説かれている霊的価値観を日本中に・・・いや、世界中に広めることで、必ずすべての人が幸福になれる!と信じていた僕にとってはなにかそれが不思議に見えて仕方ありませんでした。



当たり前のように「正しい」と信じていた会に対しても山ほどの批判があり、こころに突き刺さったものも多くありました。

それを通じていろいろな情報も知りました。



ひょっとしたら、このブログを通じて書くこともひょっとしたら、新しい問題を生み出すことになるかもしれません。



でも、自分を偽らず、率直によいことも悪いことも迷ったことも書いていこうと思います。




「みんなが信じて幸福になればそれでいいんじゃないの?それでなにか間違っているの?」

と何も考えず思っていた僕にとって、分からないことばかりでした。



考えなきゃならない

というか、僕に考えさせることをはじめさせたきっかけのひとつに佐倉哲氏の会の考え方に対する批判の数々があります。



http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/neo/index.html



さまざまな訪問者からのメッセージ、意見、批判に対する対応という形で佐倉氏の意見は述べられていきます。

意見は仏教、キリスト教、日本と世界、脳死、さまざまな分野に及びますが、新興宗教および、キリスト教、『聖書』に対してはかなり批判的な見方をしています。



佐倉氏はかなりややこしいことをおっしゃっておられ、初めて読み始めてから4年経ったいまでも、よく分からないのですが、

佐倉氏の主張は次のようなものでしょうか。 



「信仰とは本当は知らないことをあたかも知っているかのように振舞うこと」

「幸福になれるからといって、それは真理であるとは限らない」

「仏陀と会の総裁の言っていることは正反対である」というテキストの提示。


会員さんたちは頭を振り絞っていろいろなことを考えて佐倉氏の考えに対して、「それは違う」という批判を試みますが、すべて論破されてしまいます。



世の中って単純じゃないんだな。



難しく考えていかなきゃいけないんだな。



ということで、僕は「哲学」の考え方を学ぶ必要にかられたのです。



会でも、「霊言集」などに、古今東西のさまざまな偉い思想家、宗教家が出てきますし、

会の書籍にもところどころ、なんだか難しそうな過去の思想や文化の背景が語られています。



それをしっかり学んでいかないと何も意味がないじゃないか。何も語れないじゃないか。

「知は力なり」だ。

知っていなかったり、考えていなければ、何を語って何を主張しても論破されてしまう。

難しく考えて、その上で仏法真理が正しいことを証明する必要性がある。



という必要性のなかから、今の僕がいるわけです。





でも、今考えると



果たして議論によって真理を得ることができるのか。

常に他人を意識することで、自分固有の根源は開かれるのか。



相手を論破するためのパワーゲームのなかで、本当に大切にすべきものを見失ってるんじゃないかと思います。



ソクラテスの言わんとした「哲学」とはそういうものではないでしょうか。



また、会で語られる「神話」は確かに事実か、真理かどうかは分かりません。

現代では、その他にも多くのスピリチュアリズムが興隆し、超古代文明や、あの世の世界が「真実」だと信じたい人も多くいます。

ひょっとしたら、それを「何の証明もできない」「たんなる自分の欲求の表れにしか過ぎない」と一方的に切り捨ててしまう人もいるかもしれません。

しかし、それを信じようとする態度、幸福を手にしたいという人間の欲求は根本的なものです。

私はそこに着目したいと思っています。



最近、私は「幸福」とは、決して真理と同一でありえないようなナンセンスなものではないと思っています。

机上の空論でも、単なる観念上の空しいものなどではなくて、人生にとって何よりも大切なものではないかと。



間違いは、そのような証明不可能な「神話」を、科学と同列に扱い、本当は知ってもいないことを「思い込み」の世界のなかであれこれ理屈づけようとして、

「神話」を素直に「真理」として肯定しない人たちを独善的に裁こうとすることから始まるのではないでしょうか。




僕は、「語りえないものに対しては沈黙しなきゃいけない」と思っています。

「神話」を客観的な真理とすることはできません。

いくら言葉を尽くしても、分からないことって意外と多いものなんです。

そして本当に大切なものは語ることはできません。

沈黙のなかから、自分の人生にとって本当に大切なことは滲み出てきます。



「神話」は僕たちの人生にかかわる、神聖で繊細な部分の象徴です。

何も語らず受け入れるもの。

おおっぴらに軽い気持ちで語るものじゃないし、他人に理屈で押し付けようとするものでもない。




私の大学の古代ギリシアの哲学担当の教授が言っていました。

「幸福は決して科学できるものじゃない。幸福は哲学の対象にするものだ。」と。



会の名称は

科学と宗教の合一を目指す、

霊界の科学、現代の科学とは違う、神聖な科学、信仰の科学であるということ、

霊界の存在というものを「科学」とおなじように常識にしたいという運動、

みたいなコンセプトであったと思いますが。




この点について、私は、正しい「信仰」の文化は科学同様にもっと日本に浸透すればよいと考えています。

しかし、決して「科学」になってしまってはいけないと思っています。

2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
いかにして、僕が会にとりつかれるようにのめりこんだかということを話したいと思います。



それまでは、定期的に会と触れ合っていたものの、「のめりこんだり」「はっきりとした信仰を持つ」というところまではいかず、

一種の道徳的、倫理的な基盤や、価値観、世界観をもつにとどまっていました。




高校1年生のころのことです。

学校の体育祭のHPの掲示板を通してひとりの女の子とメールを始めるようになりました。

それで、いきなり急に泣きながらメール打ってきたわけです。

「小学校中学校といじめられて中学校では卒業式出られなかった。一生一緒だっていって心の底から信じていた彼氏とも別れてしまった。真剣に死を考えてます。」

「仏法真理」を学んでいた僕は直観で「これはなんというめぐりあいだ!」と、学んでいた仏法真理の言葉をひたすら盛り込んで、メッセージをやりとりしていたわけです。



仏法真理を学ぶことによってこの子を幸せに導きたい。



そういう想いでした。



それを機に以前にも増して、仏法真理の書籍をむさぼり読むようになりました。



寝る前の布団の中でも、通学の電車の中でも。



苦しみから脱却する方法を求めていました。

そしていつか彼女を信仰まで導きたいともくろんでいました。

夜になると、布団のなかで必死になって祈りました。

「お願いします。主よ。自分はたとえどうなってもいいから、あの子をお救い願います。どうか彼女が真理へと導かれますように。お願いします!お願いします!」と。



会の周りがそうしているから、ではなく、ただ一人、自分の意思で天上界に救いを求めたのです。



ところが、自分が何を言っても制止力にはならず、「寂しい。好きでない人でもいいから抱かれたい。」とネットかなんかで不特定多数の男の人と会ってたりしていたようです。



彼女の語ることは私にとってはとても衝撃的なことで、驚きの連続で、どう対応してよいのかわかりませんでした。



中高と男子校でしたから、男女の交際のことはもちろん、性についてなんて別の世界の話です。





実は当時は携帯なんてまだ与えられておらず、その時自分の使っていた携帯は、いざというときのために家にあるけれど誰も使っていなかった携帯でした。

そうなるといずれそのことがバレます。

親はメールを見て、「何あんたのものでもない携帯勝手に使って!ドロボウネコみたいな真似しやがって!こんなとんでもない奴とは一切手を切れ!」など散々言い散らしていきます。
確かに自分にも勝手な面はあったけれど、けれど僕がどんな思いでやっていることかも知らず…。

そこで僕は懲りずにこっそり携帯を持ち出して、住所を聞き出して「文通」をやろうと試みました。




「彼女」との出会いが僕の考え方を一変させてしまったわけです。




今思えば、私は傲慢であったかもしれません。



苦しんでいる人にたいして、「俺は幸せになる方法を知っている。この子は知らない。かわいそうだ。」という一種の見下しの目で見ていたのかもしれません。

そして、「人助け」をしている自分が何か偉い、霊格の高い天使になれるとでもどこかで思っていたのでしょう。



また、自分ひとりで抱え込もうとせず、周りのいろんな人に相談してみるべきであったと思います。



そして、そんな大人は周りにいたでしょうか・・・。



高校の教員である父はこう言っていました。

「自分の高校にもそういう問題を抱えた生徒はいて、放課後なんかに生徒同士でいっぱい話し合ってるけど、結局は解決せえへんのや。

でも死にたいとかたいそうなこといいつつ結局は死なずになんとかやっていくもんや。

お前はまだ子供やし、その子を助けることなんてできへん。だから、やりとりするのはやめたほうがええ。

また大人になってからそういう知識をいっぱいつけてからやればいい。」



悔しかった。



教員ってそんなものなのかなって思った。



苦しんでるやつに救いなんてないのか!?結局無視か?

世間なんて幸せなやつが自分たちの幸せのためだけに、自分たち中心で作ってるだけじゃないか。

2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
ここが結構重要になってくると思うのですが
宗教というものは、世界観というものをもとに教えが説かれます。

あるいはその世界観自体が「法」として説かれることになります。

たとえば、キリスト教であれば、「聖書」に書かれている創造や奇跡が大きな意味を持ってくるものです。


この「世界観」を無視してはいくら理屈を重ねたところで、通じあうことは少し難しいものがあると思います。

というわけで
会で説かれている根本の世界観を簡単に説明しましょう。

このことは会員が信仰生活を送る上で基盤にし、常に意識しているものと考えてもいいでしょう。


◆人間の人生は生まれてから死ぬまでではない。
人間には魂があって、一定の周期であの世(4次元以降の実在界)からこの世(3次元)に生まれ変わりながら永遠に魂の修行を積んでいる。

人間の本当の姿は霊であり心である。
そのことを忘れて、地上世界で肉体だけがすべてと信じこみ欲望にとらわれた人生を送ると、悪霊に取り付かれ地獄に行くことになる。

だから唯物論や無神論は誤りであり、そういう説を説いた人間は地獄に行くことになる。

いろいろな宗教にも共通する教えであると思いますが、要するに古代のゾロアスター教やマニ教に類似した霊肉、善悪の二元論的な性格を持ちます。

とはいっても、悪が根本的な原理として実在するものではなく、
悪の根本の発生原因は自由の相克のなかにあるとし、
大きな地獄が生じたのは一億二千万年前にルシファーという大天使が堕落して天上界に反乱を起こしてからということだが、
ここではそこまで壮大な世界については大きいので語るのを控えます。

◆私たちひとりひとりには「守護霊」と呼ばれる「魂の兄弟」がついていて
こっちからは見えないけど、いつも地上にいる私たちが誘惑に陥らないよう守ろうとしている。
たまにインスピレーションも送ってきます。
そう、あなたにもついているということです。

だから常々そのような見えない存在に対して感謝することが大切。
(「守護・指導霊への祈り」というものもあります。)

アリストテレスは「幸福」のことを「エウ・ダイモニア」、つまり「善い守護霊が共にある」としたが、
会の考え方に即して考えれば、これはつまり、心にある様々な地上的曇りを取り払い、潜在意識にある守護霊と同通し善き人生を導かれることが、すなわち「幸福」ということでありましょう。

◆人間の歴史は現在の科学では5000年ちょっとくらいに考えられているけど本当は違う。
人類の歴史は
今はないけど、
何万年も前から、ムーやアトランティスといった高度な文明を持った大陸で輪廻転生しいろいろな経験を通じて魂の修行を積んできたんだよ。

◆心の持ち方が何よりも大切。

どんな服を来ているかとか、金をもっているとか、どんな地位にあるとかは関係ない。

死んであの世に持って帰れるのは心だけ。

死んだら、生まれてから死ぬまで自分の一生をあの世の霊人たちの前で見せられて、自分の人生を反省させられる。
恥ずかしければ地獄行きです。
霊格の高い人はスーッとあの世に帰ってしまうこともあるそうです。



◆愛、知、反省、発展の「四正道」が幸福になるための原理である。

その実践を通して、悟りを得て、地球上をユートピアにすることが目的。

◆愛とは奪うことではなく与えることです。
とにかく愛といえば
他人にどうしてほしいああしてほしいということを愛と思っている人もいるが
本当の愛とは、見返りを求めずただ与えることこそ本当の愛だということです。

愛にも段階があり
愛する愛→生かす愛→許す愛
とより高次な愛にグレードアップしてゆくわけです。

会員はそのような愛のグレードアップを目指して日々愛の実践に頑張っているわけです。

◆あの世には段階がある。

すなわち、
四次元の世界には普通の人が行って、地獄界もそこにある。
五次元の世界には「与える愛」で、それなりにいいことをした善人が行き
六次元には「生かす愛」でプロフェッショナルとして人生を淘冶したような人が来る
七次元には、「許す愛」の領域で、偉人になるような人が来ます。
彼らは「菩薩」と呼ばれています。
たとえば、マザーテレサとかナイチンゲールや、みたいな人。
日蓮や親鸞も菩薩。

八次元はもっと偉い人が来ます。大きな文化の屋台骨になるみたいな。
おなじみの西洋思想でいえば、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、カント、ヘーゲル、ハイデガー(アウグスティヌスの生まれ変わりらしい)はみんな8次元の如来だそうです。日本では西田幾太郎もだ。
中国では孟子、老子、墨子とかかな。

9次元が人間として最高の領域で
仏陀やキリスト、孔子、ニュートンとかそのレベルの方々が10人で地球の文明計画を考えているのだそうです。


逆に地獄にいるのは
ヒトラーやスターリン、
思想界で言えば
唯物論、無神論を説いた
ダーウィン、マルクス、ニーチェが思想的な誤りによって苦しんでいるそうです。


会員さん達は常に自分の心が地獄の方に向いていないかを注意しながら生活しています。
そして、常々人をみては「この人は何次元の霊格なんだろう」ということを心の奥で気にしていることでしょう、きっと。


◆人間はみんな仏の子。

イスラムとキリストで対立とかしたりしてるけど、さっき言ったような世界観から言えば、マホメットもキリストも本当は同じ光の指導霊だったんだよ。

違いを嘆くな
仏の子としての善の性質が互いに同じであるということを喜びなさい。

現在、地球の歴史を導いてこられたいちばん偉い仏が下生されていますから、そのもとでひとつになろうではないでしょうか。


…「あの世があるということ」「宗教の対立は愚かだ」「超古代文明はあった」…という以上に上げたような教えは
ひょっとしたら、会のオリジナルではなくどこでも似たように説かれていることかもしれません。

現実に、あの世を「次元」構造を使って説明する点、守護・指導霊の概念、超古代文明など
GLAという高橋信次の開いた新宗教の影響を多大に受けています。



参考:Wikipedia「高橋信次」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E4%BF%A1%E6%AC%A1_%28%E5%AE%97%E6%95%99%E5%AE%B6%29

後に、会は高橋信次及びGLAの体質を厳しく批判しますが。

この問題はかなり大きなことなので、それについても調べたことを後で考察します。


さて、最後の項目ですが
会を支え、会にとっていちばん根本でもある最も強烈なオリジナリティーが次のことです。

◆総裁先生は、仏陀の生まれ変わりである。

正確には、地球系霊団の最高に位置し
過去にムー大陸ではラ・ムー大王として
アトランティスではトス王として
古代インカではリエント・アール・クラウド王として
ギリシアではオフェアリス
その後、クレタにヘルメスとして
インドではゴータマ・シッダールタとして
久遠の昔より私たち人類を導いてきた永遠の師であるのです。

その偉大なる霊存在の本体がなんと今、日本に下生なさっているということなのです。


仏陀に同じ時代に生まれることができるというのは奇跡にほかならず、この現代日本にいる私たちは、高い競争率のなか仏陀にあいまみえるために地上に生まれてきたということ。

この時代は仏陀の直説金句の説法が聞けるという二度とない、奇跡の時代であり

それが、会員の信仰というものを強く支えています。


会員の信仰の対象は
現在、会の総裁として下生なさっている偉大なる霊存在そのものに対して向けられています。



…というような世界観のもとになんと本にして400冊以上の教えが説かれています。



これらの教えは「仏法真理」とよばれ、

自分が仏法真理と出会い幸福になれたということ、仏陀の再誕を伝えるために会員さんは「伝道」という行為に励みます。


さて、次は今上げたような考え方、世界観について、考察していきましょう。



Wikipediaでは、おそらく会員さんによるものなのでしょうか、肯定的な見解で会および総裁に対して記述されています。

なかなか詳しく書かれていますので参考にしたい方はどうぞ。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E9%9A%86%E6%B3%95


2008.06.21 Sat l 未分類 l COM(0) TB(0) l top ▲
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